黒き森
■ 1 ■
白く染まった遠野家の庭に、また一枚薄化粧がかぶせられていく。
窓辺に置かれたアンティークチェアに腰を下ろして、遠野秋葉はその光景を静かに眺めていた。
兄と席を並べて、勉強する時間。普段であれば心躍る筈のひと時が、しかし今はひどく重い。
幾度めか分からないため息が、彼女の口を付いて出た。
深々と舞い降りる雪から、秋葉は目を離す事が出来ずにいる。
白は、彼女を思い起こさせる色だった。
天真爛漫と、底の見えない寂寥。相反する二つを内に秘めた、大事な兄の婚約者。
屋敷に居つき出したのは、ほんの二ヶ月ほどだというのに、たった二週間、こうして姿を消しているだけでひどく物足りなさを覚えさせる女性だった。
それだけ彼女の存在が、この家で大きな物となっているということなのだろう。
秋葉は小さく息を漏らした。面と向かって認めたくはない事だが、彼女と、そして彼女の姉がこの場に居ないことに小さな寂しさを覚えている自分を自覚する。
アルクェイド・ブリュンスタッドがこの遠野家にもたらした物は、それまででは考えられないような喧騒と困惑だった。しかしそれは同時に、淀み降り積もっていた闇を吹き飛ばし、大きな風穴をあける物でもあったのだ。
彼女の事を、嫌いではない。だが好ましいかといわれれば首を縦には振れない。
慎みを持て。兄さんの迷惑も考えなさい。ここはあなただけの家ではないのですから、決まり事くらいは守ってください。
顔を合わせれば、そんな小言が口を付いて出る。大切な兄の婚約者には、せめてそれに相応しい態度を取ってもらいたい。そう自分に言い聞かせるが、それは理由の半分くらいに過ぎない。残り半分は、単純にアルクェイドの事が気に掛かるせいなのだと、秋葉自身が分かっていた。
ここを直してくれれば、もう少し好きになれるかもしれない。好きになる必要はないかもしれないけれど、その努力は出来るかもしれない。そんな心の中の微妙な距離感をいまだ消せずに、秋葉はアルクェイドと向き合っている。
しかしそれも、彼女がこの家に居ればの話だ。
秋葉は肩をすくめて、手にしていた分厚い英語のテキストを閉じた。
小気味良い音が部屋に響いて、隣に座っていた志貴が、我に返ったように彼女に向き直る。
「ん? どうした、秋葉」
「一息入れましょう、兄さん」
「いや、大丈夫だって。この問題だけ解いてから……」
「そう言って、さっきから三十分もそこで手が止まってます」
困惑の色を眼鏡の奥の瞳に浮かべる志貴に向かって、秋葉は語気を強めた。
「勉強というものは、長い時間机に座っていれば良いというものではないのですから。まして解けない問題に頭を悩ませてるのではなく、そうやって無為に時間を過ごしているくらいなら、お茶を飲んで思考を切り替えた方が健全です」
「……いや、すまん。そんなつもりはなかったんだけど。なら今から……」
「つもりがなくてもそういう事をしているのなら一緒の事です! とにかく、一旦お開きにしますから、お茶を飲んだ後でしっかり遅れた分を取り戻してもらいますよ」
ああ、何をやっているのだろう。
声を張り上げる自分の姿を、秋葉は哂う。
椅子から立ち上がって兄に詰め寄る自分が、まるで別の人間のようだった。
どうして兄がそんな状態なのか、よく分かっているではないか。
自分ですら、アルクェイドが居ない事で寂寥を覚えているのに。婚約者である兄が思い悩まない筈がないではないか。
――三日後……そうね、三日後にはそっちに戻るから。心配しないで志貴君は勉強頑張ってね。
彼女の姉であるアルトルージュから、そう電話があったのが一週間前だった。
それから一度も、二人から連絡は届かない。
何か事件に巻き込まれたのではないか。普通の人間相手ならそう考えるだろうが、こと彼女たちに対してそれは、当てはまらない筈だった。秋葉の想像できる限り、あの二人をどうこうできる相手などいる訳もなかった。
それでも、二人からは連絡がない。
こんな状態で兄が心配をしない筈がない。受験のための勉強など、手につく筈がないというのに。
しかしそれが分かっていても、秋葉は言わずにはいられなかった。
「兄さんは約束してくれた筈です。受験をして、ここから大学に通ってくださると。今はそれが出来るかどうかの大事な時期なんですから、他の事は考えずにいて下さい」
「……わかってる。分かってるよ、それは。でもな、秋葉……」
「琥珀に用意を頼んできます。後で居間に来てください。ずっとこの部屋に居たままでは、気が滅入る一方ですよ」
志貴の言葉を遮ってまくしたてた秋葉は、そのまま踵を返した。
「お、おい、秋葉!」
「お願いします。もし話があるのでしたら、そちらでゆっくりと」
これ以上兄の顔を見ていられなかった。
二人を見守ると、あの時固く決めた筈の決意に細かいひびが入っていくような気がした。
兄の性格は分かっている。兄が今何を考えているかも、分かっているつもりだった。
それが怖かった。
今はまだ思い留まっているだろう、その行動を取られるのが、秋葉は何よりも怖かった。
「秋葉、お前一体……」
投げかけられた志貴の言葉は、厚いドアに阻まれて秋葉の耳には届かない。
逃げ出すように志貴の部屋を飛び出した彼女を、行き場のない手を伸ばしたままの志貴が呆然と見つめていた。
「……何をやってるんだ、俺は」
妹の出て行った扉を見つめて、志貴は小さくうめいた。
机の上のテキストは、始めた時から一ページも進んでいない。ノートには意味をなさないミミズののたくったような走り書きが残されている。三十分と彼女は言っていたが、実際はもっと長い間、自分は呆然としていたのではないか。
自己嫌悪に突き動かされ、志貴は頭を掻き毟った。
秋葉の気持ちはよく分かる。
彼女だってやらねばならない事が山と積もっている筈なのに、こうして勉強に付き合ってくれている。
その気遣いを理解しているのに、考えているのはアルクェイドの事ばかりだった。これでは怒るなというのが無理な話だろう。
すぐに追いかけて、手を合わせて頭を下げて、勉強に集中すると言えば許してもらえるだろうか。
頭の中に思い浮かべたその行動を、しかし志貴は取る事が出来なかった。
守れない約束は、する事が出来ない。それは殊更に彼女を傷つける事になってしまう。
こうして一人になればなおさらに、志貴の脳裏にはあの笑顔が浮かんできてしまうのだから。
電話の一本でも良かった。
一言、「もう少し向こうにいるね」という声だけでも聞けたのならば、こんなに気を揉む事はなかっただろう。
しかし電話は鳴らず、こちらから無事を確認する術も彼は持っていなかった。
そもそも、こんなに心配するような事ではないのかもしれない。
姉であるアルトルージュと一緒に過ごしているのが楽しすぎて、連絡するのを忘れているだけなのかも知れない。明日辺りには何事もなく帰ってきて、「あはは、ごめんね志貴」と舌を出すだけだったらお笑い草ではないか。
――そう、前向きに考えようともした。
志貴は唇を噛み締めた。きつく、きつく。押し当てられたはで白く色が変わってしまうほど強く。
それだったらどれだけ良い事か。しかし思い浮かべてる事が出来るのは、全く正反対の事ばかり。。
あの夜の校舎で、腕の中から消えていく温もりは、忘れることが出来なかった。
気の狂いそうなほどの渇望を押し殺して、機械的に日常を過ごしていた日々に訪れた、あまりにも突然の再会。その嬉しさに突き動かされ、深く考える事をしていなかった。
再開が突然ならば、別れもまた突然訪れてしまうのではないかという事を。
その要因を彼女はずっと抱えている。それを知っていて、目を背けてきた。
吸血衝動は、アルクェイドの体から消えてなくなる事はない。今だってロアに奪われていた力が戻ってきて、それで押さえ込んでいるのだと、他ならぬ彼女自身が言っていた事ではないか。
馬鹿な事を考えて始めている。志貴の中の冷静な部分が、もう止めろと叫んでいるが、一度転がり始めた思考は、止まる気配を見せなかった。
もしかして。もうアルクェイドはとっくに限界を迎えていて、それを隠していただけだったのだろうか。
「俺が死んだらその後は、貴女にお任せします」――そう、アルトルージュに告げた筈だった言葉は、何の意味も持たない物だったというのだろうか。
頭の中が真っ白に塗りつぶされたような衝撃。志貴は椅子から転がるように、隣のベッドに倒れこんだ。
自分は必ず、アルクェイドよりに先に死ぬものだと思っていた。
しかしそれは自分勝手な思い込みに過ぎなかったというのだろうか。
「だからって、どうすれば良いんだ……」
志貴の口から漏れた声は、ひどく弱々しい。
取り越し苦労であって欲しい。だけどそれを確かめる術すら、今は与えられていない。思考が悪い方へ悪い方へ流れている自覚はあっても、それを押し留める材料が手元に与えられていない。
話をしたかった。
たかだか三週間、それだけしか経っていないなどとは思えない程に、志貴の中でアルクェイドの存在が膨れている。
何が起きているのか。ただそれだけでも、彼は知りたかった。
もつれた考えを振り払うように志貴は頭を振る。
その視界の端を、何か黒いものが掠めた。
「ん……?」
彼は起き上がって、視線を向ける。
バルコニーへ通じる窓の下、雪の降り積もる外に、小さな黒いものが佇んでいた。
ベッドから立ち上がって近寄って、彼はそれが真っ黒な猫だと分かった。
硝子越しにも分かる、艶やかな漆黒の毛並み。首輪の変わりに黒いリボンが括られているその猫は、アルクェイドが一緒にこの屋敷に暮らすようになって、よく目にしていた猫だった。
アルクェイドの飼い猫なのだろうが、志貴は彼女がこの猫の世話をしている所は見た事がない。自分が猫のように気まぐれなアルクェイドには、猫の世話は向かないのかもなと内心苦笑していたことを思い出す。
そう言えば琥珀さんが餌付けをしようとしていたっけ。果たして名前はなんと言っただろうか。
「お前、そんな所に居たら寒いだろう?」
口元を少しだけ綻ばせると、志貴は窓の鍵を外して隙間を作った。
秋葉の目に触れたら、また小言の一つも言われそうだ。でも雪が止むまでの間くらい、部屋においておいても良いだろう。
そう思って彼が作った小さな入り口から、しかし黒猫は一向に入ってこようとはしなかった。
「どうした? そんな所にいるより、こっちの方が良いと思うぞ?」
志貴はしゃがんで手招きする。しかし猫はついと首を振り、彼に背を向けて歩き出した。
「ありゃ、嫌われちゃったか……」
呟いて頭を書いた志貴だったが、その手が止まる。
黒猫は雪の積もったベランダに器用に飛び上がると、再び振り返って、じっと彼の姿を見つめているのだ。
「おいおい……そんな雪の中にいたら寒いだろうから、こっちへお出で」
窓を開け放って志貴が一歩外へ踏み出すが、猫は逃げるでも寄ってくるでもなく、ただ手すりに飛び乗ったまま彼を見つめている。
その行動に、志貴の頭にふと奇妙な考えが思い浮かぶ。
「お前……ひょっとして俺に来いって言ってるのか?」
呟いて、彼は苦笑した。まさか、そんな事あるわけがない。
しかし黒猫は逃げ出す様子もなく、志貴の姿をじっと見つめている。
「本当に、本当に俺を呼んでいるのか、お前?」
その問いかけに、黒猫は小さく、確かに頷いて見せた。
それを見た志貴の顔から苦笑が消えて、ひどく真剣なものに変わる。
アルクェイドの飼い猫が、自分を呼んでいる。
見間違いかもしれない。普通ならそう考えるのが自然かもしれない。しかし志貴はそれが見間違いなどとは、到底思えなかった。
何か、アルクェイドの事が分かるかもしれない。
そう思った瞬間、彼は迷わず部屋の中にとって返して、ハンガーに引っ掛けていたコートを羽織る。
玄関から出るわけには行かない。
幸い、庭には雪が積もっているし、部屋は二階だから飛び降りられない高さではない。靴を履いたままでいられる洋館である事に、志貴は感謝した。いくらなんでも猫ならぬ人の身としては、裸足で雪の中を駆け出すのは、御免被りたい。
そのまま机の引き出しを開けて、七つ夜と書かれた黒い棒を引っつかむ。こんな物をお守り代わりに持ち歩くことに気が咎めたが、何があるのか分からないと言い聞かせ、彼はベランダへと戻った。
居間で待っているだろう秋葉の落胆の表情を思い浮かべると、胸の奥にちくりとした痛みが走る。
しかし今の志貴には、黒猫の誘いに背を向ける事など出来なかった。。
準備はもう大丈夫なのかと、一度首をかしげる黒猫に向かって志貴は苦笑を浮かべる。
「ああ、何が待ってるのか分からないけど。連れてってくれ黒猫さん」
彼の言葉を何ととったのか、身を翻してベランダを飛び降りた黒猫に続いて、志貴もベランダを飛び越えた。
■
震えを押さえるようにゆっくりとティーカップに手を伸ばして、秋葉は一口呷った。鼻を抜ける爽やかな香りが、凝り固まった心を少しだけ解き解していく。
彼女の両側にはそれぞれ、琥珀と翡翠が控えている。二人の顔には、困惑と僅かばかりの悔恨が浮かんでいた。
「やはり、志貴さまにもう一度声をお掛けしてきた方が宜しいでしょうか」
意を決したように言う翡翠に向かって、秋葉はゆっくりと首を横に振った。
「今は良いわ。でも夕食の時にはもう一度声をかけてきてちょうだい。さすがにそれくらいは一緒に取ってもらいたいもの」
「……かしこまりました」
まだ幾分納得の行かない表情ながらも、翡翠はゆっくりと居間の入り口に下がった。それを見て秋葉は、小さく溜息を漏らす。
結局自分だけではないのだ。
翡翠も、そして琥珀も志貴の動揺を感じているから、どう接するべきか差し伸べる手を伸ばしあぐねている。
秋葉は、傍らに控える琥珀に向き直った。
「……琥珀、頼んでいた件なのだけど」
「申し訳ありません、秋葉さま。四方手を尽くしましたが、どうしても今日までの足取りは掴む事が出来ませんでした」
首を左右に振り、琥珀は顔を伏せる。いつもは柔らかい笑顔を浮かべている琥珀の表情も、今は暗く翳っている。
「久我峰様にもご尽力いただいたのですが、何分昨日の今日では日数が足りないとの事です。それと……」
「分かっているわ。遠野の名はせいぜいこの国の中でだけ。
欧州は勝手が違うものね」
「それでも分かった範囲では、一週間前にウィーンの国立歌劇場で、アルトルージュさんらしき人が目撃されています。ただ、そこから先の足取りは全く……以前シエルさんがおっしゃっていた通り、やはり「ブリュンスタッド」という名前は、あちらでは一種のタブーとなっているようですね」
琥珀の言葉に、秋葉はティーカップをソーサーに戻した。
「本当に、今更だけど。兄さんはとんでもない相手に見初められたものね」
「どちらかというと志貴さんのほうがぞっこんという感じですけどね」
「……何か言いたそうね、琥珀」
「いえ。志貴さんも、アルクェイドさんも、お互いに余分な物が滑り込む隙間もないくらいにしっかりくっついてしまってますから。あれだけ朴念仁な志貴さんが、あそこまで惚れこんでしまうなんて本当にすごい、と」
「……琥珀。貴女は私がやきもちを焼いてるって言いたいのかしら」
「いえ、そんな事はありませんよ」
苦笑する琥珀を睨みつける秋葉だったが、その視線にはやはり力が篭っていなかった。
「前も言ったと思うのだけど。私は、兄さんの幸せを望んでいるわ」
「はい、それはよく心得ております」
「あの戸隠での一軒で、戯れはお終い。後は妹として、兄さんを出来うる限り支えてあげたいって思ってる」
「ええ、ご安心ください秋葉さま。秋葉さまのお気持ちはわたしも、翡翠ちゃんもよく分かってますから」
主を労わるように、琥珀は微笑む。それを見た秋葉は目を伏せて、きつく両の腕を抱きしめた。そのまま搾り出すように出された声は、琥珀の耳にもはっきりと分かるほど震えていた。
「兄さんの気持ちは痛いほど分かるのよ? どれだけアルクェイドさんを心配しているのか。横にいるだけで、それが痛々しいほど伝わってくるもの。私に出来る事なら、何でもしてあげたいって思っているのよ? それが例え、兄さんに伝わってないとしてもね」
「そんな事はありません。志貴さんも、秋葉さまのお気持ちは充分……」
「そんな事、あるのよ。だって今、兄さんの中はアルクェイドさんのことで一杯だもの」
呟く秋葉の声に、琥珀の表情が憂いに満ちる。
「志貴さんは、やはりアルクェイドさんたちの所へ行くおつもりなんでしょうか」
「……まだ言葉にしてはいないけれど。だけど時間の問題ね。明日、いえ今日にでも連絡が来なければ、きっと兄さんは行ってしまう。例え一人で着の身着のままでも、絶対に海を渡ろうとするわ。兄さんは、そういう人ですものね」
秋葉の口から、今度は深く見えるほど重い溜息が滑り落ちていく。
家族を大事にする。秋葉たちの側にいる。志貴のその言葉は嘘ではないと秋葉も分かっている。
事実彼が、不器用ながらも気にかけて行動してくれているのは彼女にも伝わっているのだから。
しかしそれとは別にして、志貴はもっとも大事だと思う者の為ならば、迷いなくほかの全てを投げ捨てても飛び込める人間だということもまた、分かってしまっていた。
秋葉はそっと胸元に手を当てた。
自らの鼓動の他に、確かに志貴の温もりも伝わってくる。それは錯覚などではなく、彼女が抱えた確かな志貴との繋がりだ。
自らの命を分け与えている相手が、自分だけを向いてくれないという現実。その残酷さに嫉妬を覚えないと言えば嘘になった。
女として確かに、遠野秋葉はアルクェイド・ブリュンスタッドに羨望を抱いてしまう。
しかしこの繋がりを盾にして男女の愛を志貴に求める事は、秋葉の矜持が許さなかった。
確かに自分の力では、兄の隣に立つ事は出来なかった。しかし今、兄の隣に立っているアルクェイドは、同時に兄の後ろに立つ事は出来はしない。
妹として、兄を後ろから支える事こそ、今の自分にしか出来ない役目なのだから。これだけは、他の誰にも譲る事の出来ない、大事な宝物だ。
だが、もしもこの願いこそが、兄の妨げになっているのだとすれば……
自らの肩を抱く、秋葉の手に力が篭る。
仮定が、形無い化け物のように彼女の中で膨れ上がり、その心を飲み込んでいく。
「だけど……だけど、出来ると思う?! 今何が起きているか分からない欧州へ、そのまま兄さんを送り出すことなんて出来ると思う?!」
秋葉の叫びが、居間に響きわたった。
抑えていた感情の堰が、ついに彼女の体からあふれ出してしまった。
「いっその事、アルクェイドさんが普通の人ならばどれだけ良かったか! 普通の人が巻き込まれる、普通のトラブルだったら、私たちの備えでもどうにか出来る可能性があるものね。だけどアルクェイドさんも、そしてアルトルージュさんも、私たちの手など届かないはるか高みの存在よ。その彼女たちが巻き込まれるトラブルになんて、どう備えさせれば良いのよ?!」
鈍い音が部屋を揺らした。
テーブルを叩きつけた勢いで、ティーカップの中に残された紅茶が波立つ。
激情に突き動かされ、傍らの琥珀を睨みつける秋葉の瞳には、涙が浮かんでいた。
「ええ、ええ分かっているわ。言ってもしょうがない事を口走ってるって分かってる。こんな事をあなたたちに当り散らすなんて、本当に私らしくないって。だけどダメなのよ。今の兄さんを見ているのは辛すぎる。だけどそれに素直に手を差し伸べる事の出来ない自分が、あまりに不甲斐なさ過ぎて、どうすれば良いのか分からないのよ!」
みっともないと、そんな事を琥珀に言ってどうなるのかと、自覚していても秋葉は吐き出す思いを止める事が出来ない。
ブレーキの壊れた自動車のように、自分の中の衝動が天井知らずに膨れ上がってしまう。
「だから、だから私はアルクェイドさんが嫌いなんですっ! 兄さんに心配ばかりかけて――」
「――秋葉さま。今のその言葉は、秋葉さまらしくないですよ」
止まらない秋葉の激情の前に、その言葉が突き立った。
それは彼女の声に比べれば、はるかに小さな物であったが、確かな楔となって秋葉の心に突き刺さる。
「琥珀! あなた今何て言ったの?!」
「本当にそんな事を思っていないのに、そんな弱音を吐かれる秋葉さまなど、らしくないと申し上げました」
涙に滲む秋葉の視界の中で、琥珀は目を反らさず彼女に向かい合っている。柔らかい微笑みはすでになく、いつに無く真剣な表情がそこには浮かんでいた。
「志貴さんがいなければ、わたしも翡翠ちゃんもあのままでした。秋葉さまだって、今のように笑ったり、怒ったりする事など出来はしなかったのではないですか」
「それが、アルクェイドさんと一体何の関係があるのよ!?」
「判っておられる筈です。わたし達を変えたのは志貴さんですが、その志貴さんを変えたのは、他ならぬアルクェイドさんではないですか」
「だとしても! あの人の行動が兄さんに、いえ、私たちにまで心配を掛けているのは事実じゃない! まして一緒にいるはずのアルトルージュさんまで、何の連絡もよこさない。これで嫌いにならないなんておかしいでしょう!」
「アルクェイドさん、そしてアルトルージュさんがどう、心配を掛けていると言うのですか?」
「どうって、それは……!」
琥珀の言葉に、一瞬秋葉は言いよどむ。
それは決まりきった答えだった筈なのに、改めて突きつけられるととっさに反論が出てこなかった。
それを見越したように、琥珀が続けていく。
「心配をする事と、一人で抱え込む事は似ているようで全然違う筈ですよ。それは他ならぬ秋葉さまが、わたしに教えてくださった事じゃないですか」
彼女の言葉には、容赦がなかった。言い返す言葉を思いつけず、秋葉は息を呑む。
確かに、その通りだ。
三週間前、四人で訪れた戸隠では立場が逆だった。全てを一人で抱え込み、悩みに押しつぶされそうになっていた琥珀を無理やり引き戻したのは自分たちの言葉ではなかったか。
一人で抱え込むなと。皆を悲しませるなと諭したのは他ならぬ自分ではなかったか。
「皆で考えれば、良いんですよ」
琥珀の表情が変わった。薄氷を融かす、陽だまりのような顔で、秋葉に向かって笑いかけていた。
「わたしたちは皆、大事な家族だって。志貴さんも、秋葉さまもそう言ってくださいましたよね。そしてアルクェイドさんも、アルトルージュさんもこれから新しい家族になられる方たちです。なら、家族の事を秋葉さまたったお一人で悩まれているなんておかしいじゃないですか。ですから、皆で考えましょう」
その笑顔が、まぶしい。行き止まっていた心の暗闇を照らし出されるようで、秋葉は目を合わせることが出来なかった。
分かっていた筈ではないか。皆の身を包む棘はもう折れて、お互い体をすり合わせても、体を傷つける事などないのだと。
なのに一人でない棘を振りかざして、必死になっていると琥珀は言う。その事が秋葉は、ひどく恥ずかしかった。
「……仕方ないじゃない。そんな事、慣れていないんだから」
「もう、秋葉さまは難しく考えすぎなんです。どんと甘えちゃえば良いんです。そうやって自分の思ってる事を伝えなきゃ、志貴さんみたいな朴念仁さんが分かるわけないじゃないですか」
琥珀の笑顔が悪戯めいたものに変わる。
「本当に……簡単に言ってくれるわね、あなたは」
やれやれと、肩をすくめる。
それは秋葉なりの、ささやかな敗北宣言だった。
「そうね、私が自分を見失ってるようじゃ話にならないわね。これじゃアルクェイドさんやアルトルージュさんの事を笑えないわ」
「全くです。アルトルージュさんはもちろん、アルクェイドさんもあれで、本当に大事な事は自分の中に抱えてしまうタイプですよ」
「そう、かしら……」
秋葉は頭の中に彼女たちの顔を思い浮かべる。いつも華やいだ笑顔をたたえている二人だが、言われてみれば詳しい身の上や過去などは、彼女本人の口からは聞いた事がなかった気がする。
「……ブリュンスタッドの血筋って、そういうものなのかしらね」
「だとしたら、ちょっと困っちゃいますね。皆で秘密を抱えたまま構って欲しがってるうさぎさんじゃないですか」
琥珀の言葉に耐え切れず、秋葉は吹き出した。
胸の支えが取れて、気持ちが随分と軽くなった気がする。
善は急げと人は言う。
これが善かどうかは分からないけど、でも、今の勢いならむやみに変なことを悩まず話が出来る筈だ。
「翡翠。兄さんに声を……あら?」
秋葉は入り口に向かって振り返る。しかしそこに立っている筈の翡翠の姿は、いつの間にか見当たらなくなっていた。
「ああ、翡翠ちゃんは一足先に志貴さんを呼びに行ったみたいです。秋葉さまがそうおっしゃられるのをずっと待っていたみたいですから」
「全く、翡翠ったら、勝手に……」
「代わりの紅茶をお持ちしますから、出すぎた真似はそれに免じて許してくださいませ」
溜息をつく秋葉に向かって、琥珀は笑いかけるとティーカップに手を伸ばした。
そこに、ひどくあわただしい足音が飛び込んできた。
「秋葉様、姉さん!」
息を切らして今に飛び込んできた翡翠。普段の彼女ならば決してしない筈のその無作法。それを見た秋葉は、振り払いたい黒い雲が再び忍び寄ってきたのを感じてしまった。
「翡翠ちゃん、志貴さんに、何かあったの?」
「何があったの、翡翠」
心配そうに妹に問う琥珀。それに重ねて問いかける、秋葉の声は、ひどく硬い。
当たるなと。そんな悪い予感など、どこか遠くへ消えてしまえと願う。
しかし二人の視線を浴びた翡翠は、息を整える間もなくそれに答えた。青ざめて、今にも倒れそうな表情で。
「志貴様が……志貴様が部屋におられないのです! ベランダの窓が開けっ放しで、ハンガーに掛けられていた筈のコートも無くなっているんです!」
甲高い音を立てて、琥珀の手からティーカップが転げ落ちた。それを咎める言葉も、秋葉の口から出てきはしない。
自分が手にしていれば、間違いなく同じ事をしていただろうから。
「翡翠ちゃん、それは一体どういう……」
「今はそんな事は良いわ、琥珀。それより、私のコートを早く持ってきてちょうだい。まだ遠くには行っていないと思うから」
それだけ言うのが精一杯だった。
一瞬顔を見合わせた翡翠と琥珀がすぐに駆け出していくのを横目に、秋葉はうなだれる。
ああ、どうして。
秋葉は、全身から力が抜けていく思いだった。
どうして、希望は腕に抱いた瞬間、儚くすり抜けていってしまうのだろうか――
■
志貴の目の前を、黒猫が駆けていく。
雪はいまだ止む気配がない。降り積もった白い絨毯の中に、黒猫は時折すっぽりと埋もれてしまう。慌てて志貴が助け出した事もあったが、施しはいらないとばかりに彼の手をすり抜けて、黒猫は道なき道を進んでいった。
「どこまで連れてかれるんかな、俺は」
志貴は苦笑を浮かべた。
普段通る、屋敷の門への道は既に外れている。枯れ枝に雪化粧を施された森の中を、先ほどからずっと歩き続けていた。
離れへの道とも違う。今まで一度も通ったことのない場所を今、猫と一緒に歩いている
いや、違う。
志貴は頭を振った。記憶に引っかかる情景が、目に映った気がしたのだ。
あの時は雪など降っていなかったし、時間も真夜中だった。
黒猫に導かれてはいなかったが、目の前には黒い少女が楽しそうに駆けていた。
初めてアルトルージュと会った日の夜中、彼は彼女に手を引かれて、そしてその真意を手荒く伝えられた。
あの日と同じ場所に、今向かっているというのだろうか。
それは、つまり。
「ひょっとして……アルトルージュさんが帰ってきてるのか?!」
志貴は雪を掻き分けて、前を進む黒猫に詰め寄った。
何故、帰ってきたのなら家に来ないのか。何故このような回りくどい手段を使っているのか。当然浮かぶ筈の疑問を、しかし今の志貴は思い浮かべる事が出来なかった。
アルクェイドへの手がかりが欲しい。その事だけに頭の中を埋め尽くされて、志貴は黒猫に向かって手を伸ばす。
驚いたように一歩飛び退った黒猫は、そのまま木陰に姿を消してしまった。
「お、おい! どこへ……」
慌ててその後ろを追っかけた志貴は、木立の奥に回りこんだ瞬間、言葉を失った。
木々が茂っている筈のそこは、ぽっかりと、元から何もなかったかのように開けている。周りに降り積もる雪もそこには届いていない。むき出しの地肌がからりと乾いているのを見れば、熱で雪が溶けたのではないのは明白だった。
「何だ……これ」
目の前に広がる異景に、志貴は言葉が出てこない。恐る恐るその中に伸ばした手には、冬の身を切るような風も吹き付けてはこなかった。
間違いなく遠野家の庭にいたはずなのに、いつのまにか別の世界に連れてこられたかのような感覚。
「雪の吹きすさぶ中で立ち話というのは、人間には少々酷だろう。目には寂しい世界になってしまったが、まぁそのあたりは大目に見てもらいたいな」
そこにかけられた声に、初めて志貴はその世界の中に先客がいることに気付いた。
ゆっくりと、彼に向かって歩み寄ってくる人影は、老人のように見えた。
銀刺繍の施された、漆黒のローブに身を包んでいる。そこから伸びた左腕には、志貴を案内した黒猫を抱えている。
豊かに波打った髪と、蓄えられた髭の白さが、彼の積み重ねた年月の長さを物語っているようだった。。
深い年輪が刻まれた顔には穏やかな笑みが浮かんでいたが、志貴を見据えるその眼差しには、いささかも老いの弱さを伺わせるものはなかった。
その瞳は、アルクェイドと、そしてアルトルージュと同じ真紅。
その意味を悟って、志貴の背中に緊張が走りぬける。
「手を掛けさせてすまんな、レン。これからちと、男同士の話があるゆえ。お前はあっちに行っていてくれるかな」
彼の覚えた戦慄などに気付かぬとばかりに、老人は黒猫に微笑んだ。一度小首をかしげた黒猫だったが、老人の頼みを理解したのか、その腕をすり抜けて駆け出していった。
傍から見れば隙だらけの行動だったが、それゆえに志貴は一歩も動く事が出来ないでいた。
隙があるのは当たり前だ。
蟻相手に気を漲らせる獅子など、世の中にいるものか。
アルクェイドや、アルトルージュと向かい合った時同じだった。目の前の老人と自分では、それだけの差があると、志貴は本能で理解した。
老人はしばらく黒猫の行方を眼で追っていたが、やがてゆっくりと志貴に視線を戻す。
それだけで、二人の間の空気が変わった。心臓を掴み上げられそうな重圧が、志貴に向かって押し寄せてくる。
「爺さん……あんた、一体何者なんだ」
縮み上がる鼓動を必死で鼓舞して、上ずりそうになる声を必死で平静に戻し、志貴は老人の視線を受け止めた。
あの猫の名前を知っていて、自分をここまで連れてきた相手なのだ。それはつまりアルクェイドに繋がる何かを知っている相手だということ。
そんな相手が、目の前にいる。
その意味は正確になど分からないが、最初から頭を垂れて白旗を掲げるのなど御免だった。
「ふむ……中々肝が据わっているようだ。悪くないぞ、少年」
老人は、視線の圧力を緩めて、口元を吊り上げた。
「ゼルレッチと呼んでもらおう。お主に二つの道を示しにきた、お節介焼きの老人だよ」
続く。