千年城ブリュンスタッド。
 この世界にありてこの世界にない、最も天に近き土地。大地の代行者である真祖が月の王と共に住まう場所であり、今の俺の居場所であった。
「リィゾ殿、ただいまご帰還か」
 すれ違う真祖に軽く会釈をして足早に通り過ぎる。
 この身が彼らの王の所有物であるがゆえか、連中の私に対する態度は他の死徒への物とは異なるものであった。畏敬と嫌悪。腫れ物を扱うように、と言うのが正しい表現かもしれなかった。トラフィムあたりはそんな真祖たちへの侮蔑を隠そうとしていなかったが、俺にとってはどうでもいい事だ。
 リィゾ、というのが今の俺の名であった。
「名前が無くては何かと不便であろう?」
 王が気まぐれにつけた名を数百年間使い続けている事。その事が俺の全てをあらわしているかのようだった。バール・シュトラウトという男は死に、残されたのは抜け殻だ。抜け殻にとって名なぞどうでもいいのだから。
 今の俺には何も無い。この身に纏う鎧も、腰に佩く闇を纏う魔剣(ニアダーク)も全て与えられた物を使っているだけだ。
 自ら望んで手を伸ばしたことは無く、またそれを行う気にもなれなかった。ただ周りに請われるままに剣を振るう。そんな日々がいくつ積み重ねられたのかもはや思い出すことは出来ないが、今の俺にはどうでもいいことであった。
「ご帰還、お待ちしておりました」
 そう呼びかけられた声に振り返ると、目の前に年若い外見の男が立っている。記憶を探り、王の伝令役を勤めている死徒だということを思い出した。
「此度も獅子奮迅のご活躍だったそうで。さすがは『ブリュンスタッドの剣』ですね!」
 彼は目を輝かせ、顔を赤らめそう捲くし立ててきた。その様に心の中で嘆息する。
 ――『ブリュンスタッドの剣』。
 いつの頃からか、俺の事をそんなご大層な名で呼び始める者が出始めた。
 曰く、王の宝剣。必勝を呼び込む勝利の剣。
 大した呼ばれようだ。王に対する敬意など無く、勝利なぞ頭の端に思い浮かべたことも無い男相手に。
 いや、所詮剣は振るう者がいてこそ使える道具でしかない。とすれば今の俺の状態こそ、『剣』と呼ばれるのに相応しいかも知れぬ。朱い月(ブリュンスタッド)の剣――そう考えればなかなかに気の効いた呼び名であるかもしれなかった。
 心中で昏い笑いを噛み殺し、今だ興奮した視線を送ってくる彼に向き直った。
「……陛下のご用命は?」
「あ、そうでした!」
 俺の言葉に自分の仕事を思い出したか、青年は照れ笑いを浮かべる。
「リィゾ様、戻られたらすぐに謁見の間に参上するようにとのご命令です」
「承った。すぐお伺いしよう」
 頷き、彼を下がらせると俺は長大な回廊の奥へと向かい歩き出した。



 荘厳な、と他の者なら評するであろう部屋に備え付けられた巨大な玉座。そこにただ一人腰を下ろすことを許された男が、物憂げな瞳で膝をつく俺を眺めていた。
 全ての真祖、数多の死徒の頂点に君臨する永久の王。朱い月というのがその名である。
「……リィゾ、只今ブリトンより帰還いたしました」
「ご苦労。かの地の竜退治はいかがなものであったかな」
「……万事滞りなく」
 俺の返答に王は、声を上げずに笑う。
「相変わらず面白みの無い男よな。しがらみが断たれた時のお前は、もっとよい顔をしていたというに」
 その言葉が耳を抜けた瞬間、押さえきれぬ血が体中を駆け巡った。
 脳裏に蘇る夜の闇、草木すら無い大地、そして刃が砕け散った剣。
 それが何かは思い出せない。ただ、それが浮かんだ瞬間、抑えきれない感情が俺を満たしてあふれ出し、長大な部屋すら染め上げた。
 彼を見つめる俺の瞳は自然と鋭いものに変わっているだろう。気付かず噛み締めていた奥歯が嫌な音を立てる。
 身に満ちるのは、目の前の男に対する憎悪。
 使えるべき王に深い憎悪を抱く。僕としてはありえない不敬であろうに、不思議と彼は俺を諌めようとはしなかった。もっともそれこそが、俺が僕である何よりの証拠であるかもしれない。掌の上で鼠が毛を逆立て牙をむいたとて、笑いこそ浮かべども本気で怒り恐れる事などない。つまりはそういう事であろう。
   王は俺の憎しみを飼い殺し、それを肴に悦に浸っている。それが分かっていてもなお、身に刻まれた憎悪が噴出すのは止めようが無かった。
「そう、そうだ、その顔だ。お前にはその顔こそが相応しい」
「……ご容赦を」
 何も言うことが出来ず、ただ頭を下げ自らの内に荒れ狂う感情を沈めようとする。相手に嫌悪を与えない憎悪など、無意味だ。それが喰われているかと思うと怖気が走る。
「まぁいい。今日呼び立てたのはお前の労を労おうと思うてな」
「は……それは光栄な」
 予想もしていない言葉であった。まさか王からそのような言葉を聴くことになろうとは。
 おそらく戸惑いの表情が浮かんでしまったであろう俺に向かって降ってきた声は、玲瓏としつつも何かを楽しむような声色を含んでいた。
「うむ。褒美だ。我が娘をお前にやろう」
 その言葉を噛み締め、飲み砕き……一瞬呆けた。
 言っている言葉を理解する事を、脳が拒否しているようだった。
「……今、なんと仰いましたか、陛下よ」
「アルトルージュの名くらいは知っておろう? アレをくれてやる。そう言ったのだ、リィゾよ」
 顔を上げて王の表情を伺うが、その瞳から笑いの成分は消えていた。つまりは本気でそう言っているのだろう。
 アルトルージュ・ブリュンスタッド。その姿を直接目にしたことは無いが、その存在だけはこの城で知らぬものはいない。朱い月と、彼の直系の死徒である女性との間に生まれたという、混血の姫。
 自らが不滅にして究極たる王が、何故娘などという後継を作り出したのか。その理由は彼にしか分からない。しかし彼女の誕生を歓喜を以って出迎えた真祖たちが、やがて掌を反したかのように彼女に対して背を向けたのは事実だった。
 曰く、『不完全』『後継として不適格』『出来損ない』。
 勝手なものだ。望まれて誕生した子が、望む資質を備えていなかったからと言って捨てさるとは。
 そんな事を考えている自分に気付き、驚きを覚えた。俺なぞが顔も知らぬ姫の心情を斟酌してどうなるというのか。いや、王の言に従うのならばこれより関係が出来るのかもしれないが、さすがに冗談にしても度が過ぎる。
「ご戯れを。陛下のご息女など、我のような身が手を伸ばすにはいささか高すぎるかと」
「ご息女、か」
 心底楽しそうに、王は笑い声を立てた。
「アレがそんなにご大層な身分である事がお笑い草よな。それにお前によき夫たる様など期待しておらぬよ」
 王の瞳がすっと細められる。
「アレは失敗だった。お前も近頃は楽しませてくれぬ。であれば失敗作同士、掛け合わせればよき結果が生まれるやも知れぬ」
 王はまったくの真顔でそう言った。一片の疑いも無く、俺も、自らの娘をも道具と信じている。
 そしてそれは全くの事実だ。
 この城に住まう者も、この城そのものも、彼の目に留まる物その全てを自由にする力を彼は持っている。それが月の王(ブリュンスタッド)であるという事なのだから。
「壊れ物のように扱うも、劣情をぶつけ(ほしいまま)にするも好きにせよ。あれはもうお前のモノだ」
 そこで思い出したかのように、王は声を上げて笑い出す。
「出来損ないとはいえアレも我が血を引いておるぞ? あるいは復讐の念を思うままぶつけるか?」
「……勅命、謹んでお受けいたします」
 王の声が耳より我が身を蝕む中、頭を垂れてそれだけを告げた。



 千年城の地下は咎人を繋ぐ牢となっている。生半な死徒はおろか、堕ちし真祖ですら出ることは叶わぬ牢獄。王の意思で組み上げられたこの千年城で、もっとも堅牢な場所。しかし俺の知る限り、繋がれる罪を犯す者など今まで存在しなかったのだが。
 そこに、アルトルージュ・ブリュンスタッドがいるという。
 最初に聞いたときは耳を疑った。いくら蔑まれようと、彼女の出生を考えれば考えられない扱いだ。
 しかし真祖たちの態度を見て合点がいった。
 要は恐ろしいのだ。『出来損ない』などと言われようが彼女は王の血を引きし娘であり、ブリュンスタッドの名を受け継ぐ存在である。その身に秘める力は並みの真祖など優に凌駕しうるものだろう。
 いつその力が自分たちに向くか分からない、それがゆえにこのような昏き牢獄に押し込めているのだろう。
 現に俺を案内する牢番も、その手足が滑稽なほどに震えている。それに気づかぬ振りをして、先を促す。
 彼女と顔を合わせるのは今回が初めてだが、歓迎されるとはとても思えなかった。最悪はその爪を胸につきたてられる羽目になるだろう。
 正直な所、それならそれでもよいと思っていた。どうせ死ぬことは出来ぬ身だが、運良く死ねれば僥倖であろう。
「こ……こちらです」
 その声に顔を上げると視界の先には今だ通路が続いており、その先は闇に飲まれていた。
 目には見えない。しかし、彼女は確実にそこにいた。可哀相に、牢番はおびえきった猫のような状態になっている。
「リ……リィゾ様、も……もももも申し訳ありません。これより先はぁぁぁわわわ私には、す、すすすす進む事が……」
 もはや歯の根も噛み合っていない。ここに渦巻く圧倒的な圧力に当てられてしまっているのか。牢番としては惰弱極まりない反応だが、この雰囲気の中では無理もないことかもしれない。
「構わん。下がっていろ」
 俺の言葉に露骨に安堵を浮かべた彼は、転げるように牢を後にした。それを横目に、俺は奥へと足を踏み出す。
 一歩一歩、踏み込む度に身にかかる圧力が増していく。通路に漂う気配は昏く澱んでいた。この場所は王の心の闇の具現なのだろうか。
 しかしこれは、この場所だけが持つ瘴気ではない。
 父に勝るとも劣らないのではないか。そう思わせるだけの敵意の渦が、通路の先から叩きつけられてくる。俺ですら二の足を踏むのが躊躇われるほどの圧力。それが生みだす力の渦を書き分け、俺はそこへと行き着いた。
 壁に掲げられた燭台の光が照らし出す部屋は、豪奢と言ってよい作りであった。目に映る調度も床の絨毯も、俺にも分かるほど手の掛けられた逸品である。格子で区切られていると言う事実さえなければ、確かに主に相応しい部屋と言えた。
 光の届かぬ部屋の奥は、俺の目を以ってしても闇に閉ざされ見通すことが出来ない。ただそこに圧倒的な何かが存在する事。それだけは良く伝わってきた。
 淀んだその空気が流れ、闇より深い黒が形を成して俺の前に現れた。
「ふぅん、あなたが新しい人なのね。リィゾ、だったかしら」
 格子越しに微笑む少女は、蝋燭の光など飲み込まんほどに深くそして昏かった。幽玄のとでも評すべきか、儚さと妖しさが同居したその美貌は確かに父と同質のもの。
 まごう事無く、もう一人のブリュンスタッド。
 アルトルージュ・ブリュンスタッドであった。
「お初にお目にかかります、姫」
 片膝をつき頭を垂れる。王命により譲り受けた少女に対する態度ではないかもしれないが、彼女の父に刻まれた呪いは、やはり同じ血を引く娘にも忠誠を尽くすことを求めてくる。
 いや、それを抜きにしても頭を垂れるに相応しい雰囲気を持った相手であったのだ。
「王命によりお迎えにあがりました」
 実際とは微妙に異なる命だが、まさかアレをそのまま伝えるわけにもいくまい。
「お迎え、ね……」
 くすくすと笑い声を立てる。その口元を柔らかく上げて、彼女が歩みを進めてきた、格子越しとはいえ、手を伸ばせば届くほどの距離。
 鼻先を淡い香りがくすぐった。これは、彼女の身から出ている匂いなのだろうか。
「正直に言いなさいな。あの人に言われたのでしょう? 私を好きにしろって」
「…………」
 答えに詰まる。否定は出来ないが、さりとて素直に頷くのは憚られた。場に沈黙が満ちる中、彼女がすっと手を伸ばしてきて、俺の頬をなでてきた。
「覚えておきなさい。沈黙は肯定と一緒なのよ」
「……確かにそのような命令は受けましたが、唯々として従うわけではありません。御身に触れる意思は毛頭ございませぬ」
  「そう? 別に私は構わないわよ、リィゾ。あの人にとって私なんて道具に過ぎないんですもの」
 自嘲めいた笑みを浮かべた彼女の指が、俺の顔を這い回る。頬を、鼻先を、そして唇を軽やかに突付いて回る指使いは、少女の外見には不釣合いなものであった。
「……お戯れを。それに、私風情の名など一体どうやってお知りになられたのですか」
 彼女と顔を合わせるのは初めてだ。俺が彼女を知るのではない、王の直系とはいえ、所詮死徒に過ぎぬ俺の名などいったいどこで知りえたというのか。
 しかし俺のその問いに答える事無く、一瞬目を丸くした彼女は腕を引っ込めると、やがて相好を崩して笑い始めた。
「姫?」
「ふふふふ、真顔でそんなこと言われるなんて思っても見なかったわ」
 口元に手を当てる、品の良い笑い方。そんな仕草もずいぶんと様になっていた。
「あなたは自分で思ってるよりよっぽど有名人なのよ。あの人の『子』にして並ぶ者無き、時病みの死徒。ブリュンスタッドの宝剣、常勝不敗……賞賛の言葉には事欠かないわね」
「……過ぎたお言葉です」
 そう呟くより他無かった。それを誇れない者にとって、賞賛など背負わされた荷物でしかない。
 ここに今あることも呪いなら、これから先在り続ける事も呪いだ。
 いっそ今彼女の不興をかって手討ちにされるのも良いかもしれない。ひょっとしたら死する事ができるのではないだろうか。
「駄目よ、そんな事を考えたって」
 物思いから引き戻される冷たい声に、背中がぞくりとさせられた。しまった、口に出していたのだろうか。
 しかしそんな俺の仕草で悦に入ったのか、彼女は本当に可笑しそうに笑いだした。
「あなたは分かりやすいのよ、とても。皆は巌のような男だと噂してるけど、そんな振りをしてるだけなんですもの」
「……失礼いたしました。なにぶん自分の事には」
「ええ、ええ、そうでしょうね。よく分かるわ」
 俺がそう答えても、さらに彼女は笑い続けるだけ。目の端に涙まで浮かべている。
 その様が、なぜか彼女に似合ってるように思えた。もし死徒でも真祖でもないただの少女であるならば、きっといつもこういう風に笑ったのではないだろうか。そんな事を思った自分に驚きを覚えていた。
「ところで、いつまでそこに跪いているつもりなのかしら?」
「……は?」
「鉄格子越しに話すのは無粋よね。中に入ってきたら?」
 その言葉ですべき事を思い出した。自分の迂闊さに唖然とさせられる。すぐに立ち上がり、懐に収めていた鍵で格子の錠を外した。重々しい音を立てて開いた扉の前で、俺は再び片膝を付いた。
「何をしているの? 入ってきたらいいじゃない」
「いえ、どうぞそこからお出になってくださいませ、姫」
 俺がそう言うと、彼女は明らかに虚を突かれた表情で、まじまじとこちらを見下ろしてきた。
「どういうつもり? 私をここから連れ出そうとするだなんて」
「いえ、ただこの場所に長くおられるのは宜しくない、そう思っただけです」
 最初から考えていたことであった。
 空気が暗く澱み、流れることがないこの場所は、ただ入るだけで心が磨り減り磨耗する。
 このような場所にずっと押し込められていると言うのは、おそらく彼女にとって良いことではありえない。王に対するささやかな復讐、と言う気分でもある。あのような命令に、唯々諾々と従ってやる気にはならない。
「私は王の命令でここにいるのよ? 勝手に連れ出すのは王命に反するんじゃないかしら」
  「……私は王命で貴女を譲り受けました。ならばどう扱おうと私の自由であるかと。それに新しい命令が古い命令に優先されるのは軍の常識ゆえ」
 俺の言葉に彼女は目を丸くして、そして鈴のような笑い声が響き渡った。
  「ふふ、それじゃエスコートをお願いするわ」
 悪戯っぽく告げられ、差し伸ばされたそのたおやかな手を、俺はそっと受け止めた。



 この城で一番綺麗な場所に連れて行って頂戴。
 彼女に請われるまま、俺は城の裏庭を目指していた。俺自身はさほど気に留めた事は無かったのだが、それでも記憶を探る限りおそらくそこ以上の場所は無いだろう。
 すれ違う真祖も死徒も、俺が彼女を連れていることで仰天していた。中には露骨に嫌悪や恐怖を露にする者もいたが、何か言おうとするのを目だけで黙らせ、彼女の前に立って俺はそこを目指す。
 回廊を抜け、巨大な門を開けて。一陣の風と共に目の前に広がる白い世界。
 見渡す限り広がる、咲き乱れた白い花。天には大きく輝く、玻璃細工のような月。夜の闇を退け地上を柔らかく照らし出す光を受けて、そこはまるで銀の水面のように輝いていた。
「凄い……」
 彼女の口から感嘆の声が漏れ出していた。俺の脇をすり抜けて、彼女はそこに飛び込んでいく。
「凄いわ、本当に綺麗! 信じられない」
 歓声を上げながら銀の海を泳ぐ黒き姫。舞い上げられた花びらが、彼女の身を包み込む。初めて目にした光景に感動し駆け回る様は本当に人の子の少女のようで、違和感を感じるべき物の筈なのに。それが本当に似合っていた。
 やがて彼女の動きは優美に、規則的に。されどその足はなおも軽やかに大地を駆け回るものとなる。
 冴え渡る光に照らされて、白く輝く花の園。その中を黒き少女が優雅に、静謐に舞い踊っている。
 その様が、純粋に美しいと思った。
 何かを心の底から美しいと感じる事が出来た事に、自分で驚いた。
 王はこの光景を知らないに違いない。
 彼女を蔑む真祖も、この美しさを知らないに違いない。
 これを見て、誰が彼女を欠陥品などと言えるのか。これほど月に、夜に愛されている彼女が、何故あのような場所に押し込められていなければいけなかったのか。
 我知らず、硬く拳を握り締めていた。しかし目は彼女から離すことが出来ない。魅了されたかのようにその姿に釘付けになってしまっていた。
 そんな俺の視線に気づく様子も無く、ただ月と華を観客に踊り続ける彼女。その姿が、いつの間にか変貌を遂げていた。
 月下美人が花開くように、少女の殻を脱ぎ捨てた彼女がしなやかに両手を広げてくるくると地に回っている。
 幽玄の儚さと、匂いたつような艶が渾然としている。成熟した女性の美を取り戻した彼女は、それでも腰ほどまである黒髪を靡かせ、再びこちらに舞い戻ってきた。
 間違いない。この姿こそが彼女の真なのだ。
 朱い月の娘。ブリュンスタッドの血を受けし者――アルトルージュ・ブリュンスタッド。
「ほら、あなたも踊りましょう」
「いえ……私は踊りを嗜んでおりませぬゆえ」
 彼女が俺の手を引くが、丁重に断りを入れる。踊りなど今まで一度もした事が無い。そんな自分が彼女と共にあの場に出る事が許されない気がした。
「むぅ、つまらないわね。そんなに気にする必要なんか無いのに」
「……こればかりはどうかご勘弁を」
 丁寧に頭を下げては見たが、やはり彼女のお気には召さなかったらしい。眉をひそめた彼女が、やがて何か良くない事を思いついたかのようにその唇の端をあげた。
「ならいいわ。代わりにひとつお願いを聞いてもらおうかしら」
 何を、と問いかける間もない。俺の首に腕を絡めて、ぐっと引き寄せてきた。今の彼女は女性として相当に背が高いが、それでも頭一つ分は違う。自然前かがみになった俺の顔に、ぴたりと寄せられてくる彼女の顔。触れ合わんばかりの吐息が、俺の唇を擽ってくる。
 体の奥底に忘れていた熱が点った気がしたが、気づかない振りをする。それが許されていようと乗る気はないし、彼女もそのつもりはあるまい。
「お願い、ですか」
 平静に問い返した俺に、彼女は悪戯っぽい笑顔を浮かべたまま、ついと少し顔を引き離す。
「リィゾ、あなたの本当の名前を教えなさい」
 その言葉を脳が理解して――俺の体が錆付いたかのように軋みを上げた。
「姫、それは……」
「アルトルージュよ」
「は?」
「私には名前がある。姫でも道具でも、器でもないわ。私はアルトルージュ・ブリュンスタッド 『姫』などという記号で呼ばないで」
 赤い瞳に火のような熱を込めて、彼女は上目遣いで私を睨んでくる。その鋭さに一瞬気押された。
「だから私にも、あなたの名前も呼ばせなさい。『ブリュンスタッドの剣』も、『リィゾ』という名も、本来のあなたの物ではないでしょう?」
「……アルトルージュ様」
 彼女の名を噛み締めるように、そう呟いた。
「名を持つ男は、すでに死にました。この身はすでに抜け殻ゆえ、王の手によって振るわれる道具に過ぎませぬ」
「……あなたは自分を道具だというの?」
「は、王の振るう剣に過ぎませぬ」
「じゃあ、私をここに連れてきたのもあの人の命令?」
 それを言われると返す言葉がない。確かに道具と称する者がとる行動ではないだろう。だがこの行動が間違ってるとは思わなかった。復讐心に駆られたのも事実だが、彼女は、あの場にいるべきではないと思ったのもまた偽り無い事だったのだ。あの光景を見た今、それは確信に変わっている。しかしそんな事はわざわざ口にするような事ではないだろう。
「……いえ。アルトルージュ様のお頼みゆえ、私が独断にて」
 当たり障り無くそう答えてみるが、しかし俺の答えがお気に召さなかったらしい。彼女は俺に絡めた腕を解きじっとこちらを見据えてきた。
 しばしの沈黙が場に満ちるが、それを破ったのは怒りに上ずった声であった。
「道具に独断なんて事出来るわけ無いでしょう。あなたは道具なんかじゃないわ。だから、自分を道具だなんて言わないで!」
 真摯な瞳で俺を射抜くその視線に、どうしようもなく居心地を悪くさせられてしまった。
 この数百年、こんな瞳で俺を見るものはいなかった。
 王の道具である。皆が俺をそう見て、俺もそれを受け入れていた。
 それを、目の前の少女は止めろという。しかし、バール・シュトラウトがバール・シュトラウトであるためには、その手に守るものが必要だった。それが無い今、やはり彼は在る事が出来ない。
「アルトルージュ様――そう呼ばせていただきましょう。ですがやはり、私は道具に過ぎませぬ。名を話すことは出来ませぬ」
「ああっ、もう!」
 彼女は無理やりに俺の手を引き、庭の中ほどまで連れ出してきた。
「この光景を見てどう思う? あなた、さっきため息ついていたのよ? 綺麗だって」
 それは違う。この光景が綺麗だと思ったのではない。そんな感性などとうに磨り減ってしまった。
 俺はただ、ここで踊る彼女が綺麗だと思ったのだ。
「何かを綺麗だって思える者が、道具なんかであるわけ無いじゃない。そんな人が、道具扱いされてそれを受け入れないで」
 睨み付けてくるその顔が、なぜか泣いているように見えた。
「私も、あなたも、道具なんかじゃないのよ」
 彼女はそう叫ぶと、そのまま踵を返して城の中に戻ろうとした。
「アルトルージュ様、いずこへ?」
「……『下』に戻るだけよ。私の居場所はあそこなんだから」
「いえ、宜しければ私の部屋をお使いください。何もありませぬが、それでもあそこよりは良い」
 その言葉に、彼女の足がぴたりと止まった。振り向かぬままにポツリと呟いた。
「正気? 誘い文句としては洒落っ気が足りないと思うけれど」
「ご安心を。私は別の部屋を探し使いますゆえ」
「……好きになさい。あなたに組み敷かれたところで、一人で慰めてるのと変わらないもの」
 あなたは、道具なのですものね。
 嫌悪だけではない。何か今ひとつ理解しがたい感情を声に込めて、彼女は城の中へ消えていく。
 足音から、あの地下牢へと向かっていない事だけはわかって、胸を撫で下ろした。