それは彼が手に入れ、そして、決して手に入れることができなかったモノ―――
―――そのはずだった。
目を覚ますとそこには真白な天井。首をめぐらせれば柔らかな枕の感触。白い壁、白いカーテン、白いシーツ。それで、まるで病室みたいじゃないかと笑った。
いや、そこは真実病室だった。病、傷、それらのものを癒すために用意された特別な空間。心体問わず、そのためだけに造られた施設の一部分。なぜ、自分はここにこうして拘束されて、否、何かの治療を受けているのか。手を伸ばせばそこにあるような小さな記憶から伸びる一本の糸が瞬くようにちらつき、それに手を伸ばす。
刹那、赤黒い記憶が脳裏を駆け巡る。赤い、赤い、赤い、血血血、心臓、死、死、死。王。敗北。足掻いた結果。それを―――
「う―――」
思い出した。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
悪夢は一瞬。そして全て。全てを贖えと。白い世界が彼を苛もうと牙をむく幻視。
しかし一瞬。それは一時のワルイユメ。世界は色彩を取り戻していく。
そうして周囲に対する意識が働くようになるのは人間としてのただの活動。そこに特別なものとしては何も求められず、必要でもなかった。
「あ―――、は……、はあ」
起こした上体、見開いた瞳、顎をつたい滴り落ちる汗。荒い息。息を吸い、吐き。横隔膜を収縮させ、体内に酸素を取り入れる。そうして生きていることを確認する。そうしていることを確認しないと自分が生きていることを確認できない。それだけが自分が生きていることを示す保証書のような気がして、それにしがみついた。
「はあ、はあ、あ……ん、ぐ……」
飛び出てこようとする胃液を飲み込む。
「が、は、はぁっ!」
そこで一息ついたのか、残された体力が全て尽きたのか、上体はまるで全ての力を失ったかのように寝台と再び触れ合う。
見上げれば白い天井。空が見えた。病室にある、ごく普通の窓。そこから見える空は、ただただ―――青かった。
「気がついたんですね、兄さん」
再度視線を彷徨わせる。果たしてそう苦労もせず柔らかな曲線が目に入って来り、それが彼のよく知る少女のものだと理解する。
「ああ」
そして、彼、間桐慎二は空虚としか言いようのない、答えを返した。
春が来た。間桐慎二は未だ病床にある。実際、彼の体の傷はもう癒えている。もともとこの病院は魔術協会ゆかりの病院だ。魔術師でこそないものの、マキリの者である間桐慎二に対する治療は丁寧に、確実に行われた。肉体はもう癒えている。しかし、精神はそう簡単に回復するものではない。元来彼は繊細と言ってもいい少年だった。だからこそ、現実に狂わざるをえなかった。彼がもう少し諦めがよく、もう少し強固な精神を持っていたらこうはならなかったのかもしれない。
しかしそれは仮定の話。現実として彼は繊細で、それ故劣等意識の肥大化を招いたのだ。
「兄さん?」
寝台に伏せる彼から何らかの反応が、どんな反応でもいいからそれが欲しかったのか彼女、間桐桜は呼びかける。
ずっとこの調子なのだ。彼女が求めているのか、彼が求めようとしてることを彼女が感じ取ったのか、それは定かではないがそれはこの二人にとってとても暖かな時間であることは誰が見てもそう思わせるものがあった。例え、そこにどんな残酷で腑悪な現実が伏していようとも。
うっすらと慎二が目を開けたのを見て、桜は楽しげに言う。
「今度の日曜に先輩達お見舞いに来てくれるそうですよ。先輩と、遠坂先輩と、あと藤村先生も。あ、あと、なんて言っちゃったら怒られちゃいますね」
「……そうか」
「兄さんはもう体はほとんど治ってるから、皆でおいしいお弁当を作ってきます。知ってますか? 遠坂先輩って中華料理上手なんですよ」
そんな受け答えが続く。
日が暮れる。面会時間もそろそろ終わり、間桐桜は衛宮の屋敷に食事を作りに行かなければならない。彼女にその義務こそないのだが、それが彼女の衛宮家における役割だと自負しているためゆめゆめおろそかにするつもりはない。だいたい、気を抜けば屋敷の主人が自分でやってしまうためうっかりすると自分の仕事がなくなるのだ。それどころか最近は士郎ととみに仲がよくなってきて、現在進行形で華やいだ雰囲気を振りまく遠坂凛が食事の用意だけではなく、桜の仕事をことごとく攫っていってしまう。
それが彼女に対する悪意でないことは確か、しかしだからと言って自分を無用な存在だとは思わせたくない。だから彼女は凛に、実の姉である遠坂凛に張り合うように家事にますます精を出すようになった。
士郎は知らない。自分と凛の関係を知らない。知らなくていい、遠坂凛は確かに姉だが、恋敵でもあるのだから。もし士郎が二人の関係を知ろうものならまたややこしいことになる。それに彼女には兄がいる。自分を妹と見てくれる兄がいるのだから、これ以上望むのは贅沢というものだろう。
かつての、特にここ三年間の兄はまるで悪鬼のようだった。それまでの皮肉屋でもどこか人の良さを感じさせた兄は死に、残ったのはただただ暴力だけを振るう男だけだった。
一連の騒動が終わり病院に運び込まれた兄。死んだように眠る兄。そして、目を覚ました兄は、かつての死んだと思っていた少年だった。それがどことなく、嬉しかった。
その彼がしてきたことは消えることはない。怒りの捌け口にもされた。何度も何度も組み伏せられた。それが覆ることはない。それでも、間桐桜は間桐慎二を許そうと、そう思うことにした。不満がないわけではない。ここで首を絞めてしまったら、果物ナイフを喉に突き立てたら、自分は解放されるのではないか。そう考えたことも一度や二度ではない。しかし、それが脳裏に浮かぶ度に切り捨ててきた。考えてはいけないこと、それを実行することはおろか、そのことに気付いた自分に嫌悪すら抱いた。自分は一体何を考えているのか。これではかつての彼と、あの怪人と同じではないか―――! と。
頭を振る。もう止めよう。ここにあまりいすぎるのはよくない。慎二がもう少しでも自意識を持っているのなら大丈夫なのだろうが、抜け殻のような彼を前にして、一切の主張を行わない彼を前にして、この降って沸いたような機会に耐えられるのか。そこにはわずかな銀貨。それに手を伸ばせば自分は駄目になってしまう。もう兄はあの兄ではないのだから。彼を助けた人たち、彼を心配する人たち全てに対する裏切りだ。偽りの開放という名の銀貨に手を伸ばせば、そこで全ては終わる。
「それじゃあ、また明日来ます。おやすみなさい兄さん」
そう言って桜はベッドの脇に置いてある丸椅子から腰を上げる、そのときだった。
「―――さくら……」
手荷物をまとめ病室から去ろうとしたそのとき、かすかな声が彼女を押しとどめた。
それはうわ言のようだった。
「―――さくら……さくら、さくら……」
それを聞いた彼女は息をつき、再び椅子に座ることにした。
その彼女に向け慎二の手が伸び、服のすそをつかんできた。
「あ……」
それがまるで幼い子供のようでそれに手を重ねて、彼女は兄が眠るまでそこにいようと思った。
「―――わたしはここにいますから」
そう、やさしくあやすように。兄の髪を手櫛で梳きながら。
日が暮れ、闇がその帳を世界に広げ、空には月と星々のみが大地を見下ろす、夜。
「ひ、ぐ……」
間桐慎二は夢を見る。昏い夢。紅い夢。自分の体が違う何かに変わっていく夢。
「あ、うあ……」
コワイコワイ夢。死ねない死ねない死ねない死ねない死ねナイ死ねナイシネないシネないシネナイシネナイシネナイシネナイ……!
痛い、怖い、恐い、苦しい、憎い、怨めしい、死にたい!
―――死ねない!
「……いやだ」
死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!
死にたくなんかない!
「……どうして?」
その静かな自分の寝言で目を覚ますのだ。いつもいつも、何度も何度も毎晩毎晩。
「どうして?」
そして、朝日が昇るまでそのことばかり考える。
いつもいつも、何度も何度も毎晩毎晩。
「―――ああ、そうか」
桜が散るころ。そろそろ葉桜のあの青々しく瑞々しい彩を楽しむ季節になった。
慎二は快方に向かっている。人当たりもよくなり、彼を見舞いに来た者は皆口をそろえて言う。まるで憑き物が落ちたようだ、と。
かつての間桐慎二を知る者たちが見ればそう思うのも仕方のないことだ。どこかひねた印象こそ残っているが、それこそが間桐慎二であり、それがなくなったのであればそれは間桐慎二ではなく全くの別人と捉えるべきだろう。
ともあれ結果としてかつての間桐慎二の朧さはどこかへと消えた。
時折、今でも彼のことを友人と見てくれる士郎、そのオマケでしかないと主張する凛。それだけではなく弓道部の後輩たち。彼らが見舞いに訪れたときの彼は本当に穏やかで、皮肉の一つ二つを飛ばして周囲を安心させていた。
そろそろ新学期独特のあの騒がしい雰囲気も和らぎ、学生たちは新しい、しかし今までと変わらない生活の軌道に乗ってきたころだろう。
「それでですね、藤村先生こう言ったんですよ。最近おねえちゃんの分のごはん、減ってない? って」
「桜」
「実際は減ってないんですけどね。先生、皆と張り合って慌てて食べちゃうから―――」
「桜」
二度目になって桜は慎二の、その近く聞かなかった声色に気がついた。
「あの、兄さん?」
慎二は体を起こし、素足のまま床に立った。それを桜は椅子に腰掛けたまま見上げている。
「―――あ、もう立っても大丈夫なんですか?」
答えはない。返ってきたのは、濁った、気分の悪くなるような視線だけ。自分が最もよく知る兄の眼。この眼をしたときの彼は―――
「―――衛宮、衛宮、衛宮衛宮衛宮衛宮衛宮! は、そんなにあいつの屋敷がいいってんなら入り浸ってればいいだろう。え? そうだろう? わざわざここでそんなことをべらべらべらべら話しやがって! どうせ毎晩毎晩あいつの上で腰を振っているんだろう? 僕がこうやって病院に縛られてるのをいいことに好き勝手やってるんだろうが!」
「に、兄さん?」
戸惑う、違う、これは兄さんなんかじゃない。
「ここで動けない僕をずっと笑っているんだろう! ああ、そうさ、衛宮のやつはしないだろうさ! あいつはドがつくほどの偽善者だからな! けどさあ、なあ桜。お前はどうなんだ?」
じろり、と慎二は桜を見下ろす。
「あ―――」
理解できない。状況が全くわからない。兄は変わったはずだ、いや、元に戻ったはずだ。なのに、今彼女の髪を掴み引きずるように吊り上げたのは誰なんだろう?
「どうなんだよ、なんとか言えよ」
「……」
混乱の中にあって、何を言っていいのか、どう反応していいのかわからない。何一つ意味のある言葉が出てこない。
そんな彼女に更なる苛立ちを覚えたのか、それとも優越感を覚えたのか。彼は少女の体をベッドの上に投げ飛ばした。
「っ―――」
そしてその上に被さるようにして少女を制圧する。初めての行為ではなく、むしろ今までそれが当たり前のように行われてきた蹂躙だった。
それでも、口にしないではいられなかった。
「―――兄さん、どうして……?」
「ハ、どうしてもなにもないだろう。それともなんだ、僕が変わったとでも言うのかおまえは! ふざけるなよ、僕は僕だ。間桐慎二は間桐慎二以外の何者になるって言うんだよおまえは!
僕が今まで積み上げてきた僕自身がその程度で瓦解するとでも思ってたのか! そりゃあめでたいな、勝手に思ってろよ。それぐらい認めてやるさ。だけどさ桜、これがどんな状況か、それぐらいは分かってるだろう?」
「あ、え……?」
「おまえなんかもう要らないって言ってるんだよ! マキリにおまえは必要ないんだ。とっとと消えろよ」
首を絞められる、息ができない。何が起こっているのか、起こっていること自体は彼女にとって珍しいものではなかった。ただ、もう起こることがないと思っていたからこその混乱。
恐慌をきたしながらも、桜はもう一つのことを考えていた。魔術師としての自分、養子としての自分、道具としての自分、では妹としての自分は?
この兄は、果たして兄なのか、それともただの略奪者なのか。
それが覆ることなど、決してないのか?
「に、兄さん、落ち着……あ、ぐっ」
何かの間違いだと思って、思いたくて呼びかける。返答はこぶし。頬を打たれ、その顔は髪に隠される。
「いつもいつもそうだ。桜、おまえはいつもそうだ。いつも勘違いしてるんだ。おまえはもともとマキリには関係ないのにいちいち首を突っ込みやがってっ……
僕がいれば十分だろう。おまえは余計なんだ。ああ、いままでおまえがいたことぐらいどうでもいいさ。それは何を言ったところで変わらないからな。だからさ、もうおまえは用済みなんだよ。
ああ、そうか、おまえ忘れられないんだろう? そうかそうか、そうだよな! あんなことされてまだ僕のそばにいるってことはそういうことなんだろう? くはは、そりゃあいい。そんなおまえを見てなんて言うかな、あいつら。
―――なんかさ、もうおまえがマキリの後継者気取りなことが我慢ならなくなってきたよ。もともと気に入らなかったんだけどね。もう限界かな。最初からこうしてればよかったんだよ、なあ桜?」
「あ―――」
慎二はヒステリックに叫び、髪を振り乱しながら笑う。目は見開き、もはや桜を見てはいない。その言葉も本当に桜に向けているのかすら不明。その姿は桜の目には狂乱しているように見える。現実として間桐慎二は荒れていた。何かに我慢の限界を打ち砕かれたように責め続ける。
首が絞められる。その力は次第に強くなり、呼吸が困難になる。ぎりぎりと締めつけられ、苦痛の波に飲まれ意識が遠のく。
もはやその手の動きすら掴めなくなったときのことだった。首を絞める腕が疲れたのか、その手が一度緩む。しかし、桜が再び正しい認識能力を取り戻す前にその手は再度力を込められた。偶然なのか、ちょうどそれは頚動脈を絞める結果となり、当然の帰結として間桐桜は容易く気を失った。
ただ、最後に見えた兄の顔は、どうしようもなく頼りなさげで、泣きそうで、それでも歯を食いしばる―――まるで彼女が憧れる少年と同じ顔のようだった。
「は……あ」
息をつく。苦虫を噛み潰したような表情のまま、滴る汗を拭わず彼はつい先日までの自分を演じきった。
「―――ふん」
少女にのしかかったまま、少年はくだらないとばかりに鼻を鳴らした。こうもあっさり事が進むとは。予想していた抵抗もなく、ここまで全て計画通り。
ぎり、とこぶしを握り締め、指を伸ばす。気取られるわけにはいかない。あまり時間は残されていない。目を細め、狙いを定める。
「Stellen Sie」
彼が最も憧れたカタチ。
「Verfestigung」
ずっとずっと羨んで、手に入れたくて、遠くて、手の届かなかったはずのモノ。
ぎしぎしと神経が軋む。これほどの苦痛とは予想だにしなかった。彼らはこれほどの苦痛を代償にあの程度の奇跡を起こしていたのか。
「が、あ……」
弓を引き絞るように腕を引く。狙いは一点。
「っ―――!」
つがえた矢を解き放つように、神経が焼ききれる寸前に、間桐慎二は手刀を突き落とした。
突き破るのは唯一つ。強化された指は容易く人間の体を貫く。肋骨の間を縫うように指を突き入れる。そしてすぐさま目的のものを見つけ、それを掴んで間桐桜の心臓から手を引き抜いた。
「は、はは、アハハハハハハハハハッ!」
腕を掲げる、その手に握られているのは卑小な一匹の虫。びちびちと力なく蠢くそれは、喩えようもなくただ醜悪だった。
「ぬ、ぐ、慎二、貴様!」
あろう事かその虫から意思ある声が上がる。間桐臓硯、マキリの魔術師。マキリの師父にして、五百年の時を腐り続けながら越えてきた怪異。その核たる脳虫、間桐臓硯の魂の入れ物。
「やあお爺さま、今日も相変わらず、随分とまた惨めだね」
これ以上ない程の侮蔑と嫌悪を乗せた意地の悪い笑み。
「何のつもりだ! かような振る舞い、身の程をわきまえるがよい!」
「はあ? 虫けらにえらそうな口叩かれる覚えはないな。いい加減目障りなんだよおまえ」
「慎二、ワシは何をしておるのか分かってやっているのかと聞いておるのじゃ!」
「何を? 何をだって? 決まってるじゃないか」
そう慎二は嘲笑を浮かべ、人懐っこい微笑を手の中の虫に向ける。
その笑みが、冷たいものに変わる。昏い瞳につまらなさそうな、虚ろな光を湛えながら。
「―――害虫駆除だよ」
「ワシを排除するつもりか慎二! 愚かだぞ、ワシを失ってマキリを存続させるなどおまえごときの器では何人いようとも足りぬわ!」
「マキリ、マキリか。そんなだから衰退したんだよ。それが分からないで、はっ、無様を通り越して哀れですらないなあ。
おまえと話をするつもりはないよ、マキリ臓硯」
「貴様の父親は無能であったが貴様は度し難いほどの愚か者じゃ、慎二! ここでワシを排除して何を得る。うつけ者が!」
「別に、何も手に入らないだろうさ」
「ならばなぜだ。我らの悲願、忘れたわけではあるまい」
「マキリの悲願、だろ? さあ、知らないね。僕には関係ない。僕は間桐だから」
「戯けっ!」
臓硯が一括する。
「腐りつつあるとは思っておったが、これほどまで朽ち果てておるとは思わなんだ。
間桐の名は偽りに過ぎぬ、我らはマキリ、魔道の名門ぞ。貴様もその末裔であるならば、末裔としての気概を持つのであればっ―――!」
「黙れ」
ひき、と眉間にしわを寄せ、脳虫を掴む腕に力を込める。
「腐ってるのはあんたの方だろ、臓硯。もうマキリなんてものはどこにもないんだ。あんただけがそんなものに縋り付いて、まだあるなんて妄想めぐらせているだけさ。
マキリの魔術刻印はもうない。なら、魔道の家としてのマキリはもうどこにもない。認めろよ、マキリ」
「ならば貴様は何者か、我等が血脈を現代に伝え、我等が知識を現代に伝え、我等が技術を現代に伝え、それを学ばんとした貴様は何者と言うつもりか!」
一気にまくし立てる。説得を、説得をせねばならない。確実に命を握られているのは臓硯の方だ。臓硯自身が握っている命は桜のものであり、慎二にとってそれは強制力にはならない。そう判断を下した老魔術師は一心に自らの末裔の懐柔にかかる。自己の重要性、彼の未熟さ、一族の目的、血の責任。ありとあらゆる手段を持って保身を図らなければならない。
だが―――
「はあ? さっき言ったじゃないか。いい加減頭の中も腐りきってしまったんじゃないの?
―――僕は間桐だ。間桐の魔術師、そう! 魔術師なんだ!
そうだね、間桐には歴史がないも同然さ。なら簡単なことじゃないか。―――僕が祖だ。僕が間桐の祖になればいい。
―――ああ、そうだ、いけないいけない、いけないな」
慎二はそこまで述懐したところで先ほどの人懐っこく、薄ら寒い笑みを浮かべた。キチキチ、キチキチと笑い声がこぼれ出る。
「時間がないんだ。蟲ががんばってるようだけど、このままじゃ間に合わなくなってしまうじゃないか。
じゃあな、マキリ臓硯。あんたの残したものはせいぜいいいように使わせてもらうよ」
「ま、待……」
ぐしゃり、と脳虫を握りつぶす。それが五百年も生き続け、目的のために不老不死を求め続け、本来の主願を忘れ去って久しい老魔術師の最後だった。
「Stellen Sie」
再度、世界に呼びかける。
体に合わない神経回路は体そのものに嫌われ、強硬なまでに排斥反応をとる。
「っ……Knien Unten」
命じる。体中に幾何学的な文様が浮かび上がる。これ自体は間桐の特有の魔術刻印ではない。
間桐慎二は魔術回路がなかった。だからといって魔術師という存在に異常なほどの憧れを持つ彼があきらめるはずもない。―――いつかある朝、目が覚めたらわずかでも魔術回路ができている。そんなつたない幻想を抱きながら眠りについた。自分に魔術師としての最低限の素養が欠けている、と知ったときから何年も何年も。しかし回路がないのでは鍛えようもない。ならどうしたのか?
人間は抑圧に対して様々な行動をとることで自己を守る。防衛機制と呼ばれるそれには種々様々あり、その目的は全て心の安全、安定を終点とする。
―――合理化、投影、逃避、反動形成、同一視、置き換え、昇華、そして補償。
これらの行為はときに好意的に、ときに悪意をもって捉えられる。曰く、現実逃避、曰く、責任転嫁、曰く、八つ当たり。
自分に魔術師としての適正がないと知った慎二が主にとった行動。それは補償。これは比較的よく見られる形であり、他者から見て好ましく映る場合が多い。自分が欠けていることを認め、他の分野で優れていることで自己を補完しようというこの行動は往々にして結果、本人にプラスに働く。しかし、そもそもの衝動の発端が劣等感からくるものであり、それゆえ立ち行かない現実に対して脆いという側面も持つ。
慎二の場合、抑圧の原因は彼の根幹に関わる重大なものであり、それ故にその葛藤も並大抵のものではなかった。自然その行為はただの補償ではなく、過補償、即ち強迫的なまでの補償となってしまった。
では彼は何をしたのか、魔術師としての矜持か、誰よりも魔術師らしくあろうとした気概か。否、彼は刻み続けた。いつか何かの拍子に回路が発現する、そのような益体もない幻想を抱きつつ、暇さえあれば魔術を己が身に刻み続けてきた。それはもはや自傷行為に他ならず、桜こそが跡継ぎとして教育を受けていたと知ったそのときからさらに激化していった。
苦痛の中のた打ち回り、魔術の知識を身に付けることで自分は間桐の魔術師である、そう錯覚をすることで自己を保ってきた。そういった意味では、三年前からはそれは補償ではなく逃避とも言える。
だが、それがこの状況で幸いした。臓硯を潰した後、桜の体に潜む蟲は司令塔を失った。間桐の魔術を知識を修め続け、刻み続けてきた慎二は、覚えてきた通りに式を駆動することによって拙いながらも蟲を操作できた。
命じたのは桜の維持。己の住処を守れと命じたのだ。さらに、間桐の属性は水である。血液は当然液体であり、彼の操作をある程度受けつける。短い時間の止血程度ならできないこともない。一応治癒の魔術も行使したものの、そもそも心臓を再構成できるほどの技術は持ち合わせていない。そのことについては蟲の存在がことここに至って役に立った。蟲たちが桜を生かそうとする限りそう簡単に死にはしないだろう。貫いた心臓もできるだけ傷が小さくなるようにした上、ここは病院だ。少しばかり大手術になるかもしれないが大事はないだろう。
「―――が、ふっ……」
口の端から血がこぼれる。無理をしたのだから当然のこと、ましてや今彼の中に張られている魔術回路は彼自身のものでもなければ間桐、マキリのものでもない。それはアインツベルンの持つ魔術回路であり、当然その反発は生半可なものではない。いずれ体そのものが魔術回路に合わせるように変化する。しかし、それを待っている時間はなかった。アインツベルンの少女にはこれ以上ない程感謝をしている。それが彼女を踏みにじったものであったとしても、だ。命を奪ったことを正当化しようとは考えていない。自分はあの少女を食いつぶした上で成っているのだと自身に言い聞かせる。自分は人殺しなのだと。自分は確実に一人の“人間”を殺したのだと。ギルガメッシュにいいように扱われ、それに唯々諾々と従っていた自分は確かに間桐慎二なのだから。彼女がホムンクルスなのだとも聞かされた、そのあまりにも短すぎる命、そのあまりにも残酷な不公平を。あのときの自分は、それを激情のまま、偽りの力に酔いしれながら搾取した。
もはや返らない過去、正気を失っていたと言えばそうだろう。だが、正気でなければやったことが絶対的に変わって見えるのかと言えばそれは違う。間桐慎二は生涯その十字架を背負わなくてはならない。それがどんなに短くてもだ。
口元を拭う。袖に血がついたが気にはしない。桜が持ってきた荷物の中には、彼がいつ退院してもいいように着替えが用意されたいた。それに着替え、薄手のコートを羽織る。桜の状況は実際の問題として一分一秒を争うのだが、ナースコールに手をかける前にふと思い出したように口を開く。
「……そこにいるんだろう、ライダー?」
それに応えるように突然病室に長身の女性の影が現れた。ライダー、対外的には間桐慎二のサーヴァントとして聖杯戦争に参戦していたが、その実彼女は間桐桜のサーヴァントであった。慎二は桜からマスターとしての権利を一時委譲されただけであり、偽臣の書が燃えてしまった場合マスターとしての権利はすぐさま桜の元へと返る。学校で葛木に喉を裂かれ、士郎はそのときのライダーの状況、マスターとしての慎二の力量から彼女の死を確信したが、そもそもサーヴァントが、例え首が具現化の核であろうとも、特に必要に応じて自身の喉を突くライダー、メドゥーサがその程度で消失するわけもなく、姿が消えたのはただ桜の元に戻っただけのことだった。そのときそのことに気付く可能性の最も高かった凛は動転しており、そこまで気が回らなかったのだ。
「なぜ、止めなかった?」
ライダーは応えない。
「おまえ、桜のサーヴァントなんだろう? マスターが殺されるかもしれないと分かっていてなぜ動かなかった? このグズが」
沈黙。
それに対し慎二は嘲笑を浮かべながらなじる。
「サーヴァント失格だよ、おまえ。葛木ごときにあっさりやられやがって、どうしようもない役立たずだな!」
「―――シンジ」
「あ?」
「結果として貴方の行為はサクラを呪縛から開放しました」
「うるさい」
「それに、先程からの貴方の罵倒は……」
「っ……うるさいって言ってるだろ! 余計なことを言っていいっていつ言った!?」
そう言い放つと同時にナースコールを殴るように押し、これが最後通牒だと、こう告げる。
「そう、それでいい。狗は主人の命令を聞かなきゃなあ」
「……」
「せいぜい大人しくしてるんだな。おまえが下手に動くとどうなるかぐらい分かるだろ?」
体を震わせながら去っていく、その背中を見つめながらライダーは霊体となり姿を消した。
その背に風のように呟きが乗る。
「……貴方は、それでいいのですか?」
「……ここか、ふん、うまく隠しやがって」
柳洞寺、そこは山の頂点。その中腹に慎二は体を引きずるように、そして人目をはばかりながらも辿り着いた。
書物から得た知識から始まりの土地の存在には気付いていた。あとは推測だけだ。かつて聖杯戦争の幕を下ろす場所となった地。柳洞寺、遠坂邸、教会、そして焼け野原となり現在は公園となった場所。そして神父の言葉。次の聖杯の出現場所、自分が器とされた場所。そこが―――
「うぷ……」
その時のことを思い出す、胃がひっくり返ったような吐き気を何とか飲み込む。
一回目の聖杯戦争の終局の地、そして五回目の終局地。神父は一巡したと言っていた。なら、大聖杯はここにあるはず。そう思い勘をあてに山の中腹に分け入り、内部に入るために入り口を探していたのだ。
果たしてそれは見つかった。ここで当りだった。なるほど、普通であれば行き止まりと錯覚するように仕掛けられた幻影。しかし最初からそれを疑ってかかって探している者には返って目印のように働くことになった。日は暮れて視界は狭い。時間的に捜索は限界だったのでこれは僥倖と言えた。なまじ明るかったなら誰かに見られる危険性もあったからだ。
岩壁に手を触れる。ところがその手は何の抵抗もなくすり抜けた。それを見て慎二は口の端を吊り上げ、今度は全身で幻像を抜ける。
洞窟は意外と明るく、光ゴケのようなものが内部を照らしていた。かすかに水滴が滴り落ちる音がこだまする。
入り口を発見するという、目的に一歩近づく結果にわずかに気が緩み、それが彼の緊張を幾分か弛緩させた。目が霞む。全身が鉛のように重い。想いがどこまでも遠い。それでも足を引きずるように、熱病に浮かされたように慎二はゆっくり、本当に緩慢に足を踏み出していく。
「あれで全部終わったと思ってんだろ。バーーカ、おまえは何も知らないでヘラヘラ笑ってればいいんだよ」
誰に対する嘲りか、その目には誰も映らず、その言葉を聞く者もどこにもいない。
「ハハ、おまえも気付かなかったんだよなあ。―――間抜け」
うわごとのようにこぼれ出る言葉。誰もそれを聞くことはない。
ただその言葉が彼に誰かの顔を思い出させて、それらを罵倒することによって自分は間桐慎二だと確認し意識を保っているだけ。言い換えればそれらは罵倒ではなく呪い、呪言としての意味合いをも持っている。それに縋り付いて、己を現世に括る。視界はゆらゆらと揺れ、まるで霧がかかったように不確。あるか無きかのごとき腕の感触に頼って壁を伝い洞窟を下っていく。
そして―――突然視界が開けた。
「は、ははは、はひ―――」
見つけた。
「く、くく、くはは―――」
ここが、
「さあ……」
本当の始まりの地……!
ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン、遠坂永人、マキリ臓硯が集い儀式のために用意した地。
「今、行くからな」
最高位の神秘に挑むための、ただそれだけを目的に二百年もの間迷い続けた魔術装置。顔を上げれば、そこには巨大なドーム状のこの大空洞を貫く岩の塔。ここから見ればそれはまさに巨大な杯であり、それを包むように広げられた盆状の地形。塔の足元は見えない。まるで火口のように広がるクレーターが視線を阻む。その麓までは平らな平原が広がっている。そこを、足を引きずりながら一歩一歩踏みしめながら歩いていく。
支えるものはない、いつだって彼を支えてくれるものはなかったのだから。いつだって孤独だった。全てから見放された。魔術師の家に生まれながら魔術師には成れない体。自分は生まれたそのとき、最も必要としてくれる者達から“不要”とされてしまった。その疎外感は如何ほどのものであっただろうか。認められようと、認めさせようと無意味だと心の底では理解しながらもそれを良しとせず、目を塞ぎ、耳を塞ぎ、自身を削り続けその果てには何も得ることはできなかった。ただ己の足で立つしかなかった、ただ己のみで生きていくしかなかった。
何にも、誰にも支えられず満身創痍で這いずることには慣れている。生まれてから今まで、間桐慎二はそうやって生きてきたのだから。
ああ、そういえば、一人だけ、いや二人だけいたか。自分がどんなに突き放しても、どんな仕打ちもしても最後の最後、なんだかんだで自分を助けようとしてくれた奴がいたじゃないか。そろいもそろってお人よし、彼のような人間からしてみれば利用するだけ使用して捨ててしまってもいいような奴ら。けれど彼らは潰れなかった。
目がぐらぐら揺れる。躓く、頭が地面を叩く感触。それが一瞬だけ意識を飛ばし、痛みで消えかけた意識を取り戻す。
両手で体を支えながら首を振り上げ歯を食いしばりながら、岩の塔を睨めつける。震える足で地を踏みしめ、ゆらゆらと幽鬼のようにまた歩みを始める。
「甘いんだよ、おまえらは」
額を切ったのか、血が眉間を伝い、鼻梁を撫でていくのが分かる。
「はん、いいさ、お人よしども。あとでせいぜい、僕に感……っ」
右足から力が抜ける。そのまま倒れこみ、右肩を打ち付けた。弛緩した肩はその衝撃に容易く根を上げる。
「あぐっ……!」
それでもまた立ち上がる。動かない肩を反対側の手で押さえるように掴み、足を引きずるようにして歩を再開する。
もう少し、もう少しで麓にたどり着く、そこからあとはやることは一つだけだ。
「僕は、魔術師なんだ……」
昏い世界をただひた進む。
「なら、等価交換は当たり前だよな……」
イリヤスフィールから奪った心臓、魔術回路、聖杯としての役目。それを得て自分は魔術師になった。仮初でも、歪なものでも、魔術回路を持ち、魔術を自身に刻み、魔術を行使するものは魔術師だ。ずっとずっと夢見てきた。その夢がついに叶った。それが一時の夢であっても。
それならば、彼がイリヤスフィールに支払うものは何か? 等価交換というのならば、それに相応しい対価を払わなければならない。何を返す? 自分の夢は叶えられた。なら、夢を叶えてやればよいのだろうか。
「―――だから、それは何なんだよ……」
イリヤスフィールが望んだもの。そんなの、他人である間桐慎二が分かるわけないじゃないか!
「―――ああ、でも」
彼女が、今から自分が叶えてやれる彼女の望みを考えることは出来るのではないか。
彼女の出自は聞いている。アインツベルンのホムンクルス。ユスティーツァの同系機である母親と衛宮士郎の養父、衛宮切嗣の間に生まれた少女。衛宮士郎の姉とも妹とも言える存在。彼はイリヤスフィールのことを殊更気にかけていたように思える。彼女と自分の関係に僅かながらも気がついていたのかもしれない。
自分の思いつきに嘲笑を浮かべる。まさか、そんな、この間桐慎二がそんなくだらない―――
「―――よりによってこの僕が、 のためだって?」
自分で何を言っているのかさえ揺らいでくる。
「悪い冗談さ。ああ、ふざけるにも程があるってもんだよ」
役目を果たそう。
イリヤスフィールが果たさなければならなかった、彼女だけが背負わなければならなかった役目を果たそう。
いいじゃないか、魔術師としてこれほどの大儀式の核として取り仕切るのは初仕事としては最高だろう。
そして少女が最も望んでいたであろう結末をここにたたき出してやろうじゃないか……!
「おまえのためにやるんじゃないからな、衛宮」
そう、自分に言い聞かせる。
「これは僕が支払わなければならない対価なんだからな。邪魔なんて野暮なまねはしないよな?」
―――そうして、彼は天の杯の麓へと―――
手術が無事終わり、それを霊体のまま見届けたライダーはふとある異変に気付いた。
先程まで桜の維持に当たっていた蟲たちが次々に活動を停止していく。役目は終わったとばかりに、桜をの魔力を喰らっていた蟲たちは突然あらゆる活動を止め、その肉体を滅ぼし始めたのだ。心当たりは一つだけ、今蟲を統率しているのはあの臓硯ではなく慎二だ。彼は初めからそれらにそう命じていたのだろう。
医師たちは驚いている。無理もない。いかに魔術に縁のある者たちと言えど、これは驚愕に値する。普段なら死んでいるような傷をおってなお生命活動を止めなかった。そのこと自体はそう驚くことでもない。間桐桜は魔術師なのだから、彼女が自己の生命を守るために何らかの魔術を行使したのだと考えていたのだ。ところがそれは間違いで、彼女を維持していたのは蟲。間桐が虫使いだと知っていればここまで狼狽しなかったであろうが、現にそれは執刀医を驚愕させる事実だ。
一度ただの肉と化し、その後再構成されて桜の体外に排出されていく蟲。今まで蟲に喰われていた魔力が全て桜の体内を循環し、その余りあるエネルギーがライダーに供給される。もしここでライダーがいなかったのなら下手をすれば桜は暴走してしまっていたかもしれない。しかし、ライダーは別のことを考えていた。
一人の少年の後姿。その今にも瓦礫の山が崩れていくような背中が、
用済みとなって塵と消えていく虫たちと重なって、
ひどく……
―――役目を終えた者の末路を連想させた。
丘を登り終える。一度振り返り、自分が這いずってきた道を眺める。別段遠かったわけではない、だが決して短かったわけでもない。実際の距離の問題ではなく何か別のものがそうであったかのように感じられた。
足を引きずり、地面につめを食い込ませ、土を噛み締めながら、すぐにでも投げ出して、全てを放り出したらどんなに楽だろうと幻想し、それが更なる苦痛の毎日を送る一方通行の狭路だと再認して―――
「がっ!?」
突然頭が殴られたような衝撃。なんてことはない、体が耐えられなくなって痙攣しているだけじゃないか。
鼻腔から血が流れ落ちる。ああ、目からも流れているな。はは、一人で来て正解だった。こんな無様な姿、魔術師として無様に過ぎる姿をあいつらに見られるかと思うとそれこそ気が狂ってしまうじゃないか。
「……根を上げろよ」
ゆっくりとクレーターの中に入っていく。がくがくと震える足はまるで壊れた玩具のよう。左右に今にも倒れそうな歩き方はさながら歩き始めたばかりの赤ん坊のように頼りない。
肉眼では見えないが、足元には巨大な魔術回路。その源は―――
「そうだろ? ユスティーツァ」
ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン。彼女が大聖杯を支えるシステム。未だ大聖杯の内部に収まるかつてのアインツベルンの当主。この大儀式の核、大聖杯の炉心としてだけ生み出された女性。
「もう……この儀式は破綻してるんだぜ。おまえの犠牲は全部、全部無駄になったんだ。
あきらめろよ……! それとも、現実を突きつけてやらないと分からないのか、そうだよな、おまえたちはそのためだけに生み出されてきたんだもんな! それが出来なきゃおまえはただの役立たずさ。不良品って言ってもいいな、は、はは。
そうさ、僕だって……なあ、ユスティーツァ、僕もそうなんだから……!」
そこにいる。歩かなければ、進まなければ届かない。
「だから、さ。終わりにしようじゃないか。おまえが出来ないって言うのなら僕が砕いてやる。ほら、分かるだろ? 僕の魔術回路、いや、アインツベルンの魔術回路さ。なんて言ったっけ、ああそうそう、“天のドレス”は、さすがにそれは持ってないけど、そんなのいらないだろ。
なんなら一緒にいってやる。出来損ない同士、それも悪くない」
誰が聞いているすらも分からない。ただ狂ったように、血に濡れた微笑を浮かべながら想いを綴る。ただのシステムになったモノが彼の問いかけに応えるはずもなく、彼以外の何者も音を発することのない静寂。その気が狂いそうになる空虚。それに呑まれて狂ったのか、もとより狂っていたのか。狂ったと錯覚して自己を誤魔化しているだけなのか。ユスティーツァ、そして何より自分への嘲りの声を何度も何度も静寂にこだまさせる。
己の望んだ世界、己の望んだ自己。成果には対価を、それが彼の望んだ世界。等しく与えられる権利。責務には報酬を、能力には責任を。負うべき枷と与えられる特権。それが正しくあるべき世界。その幻想が打ち崩されたとき、全てが崩壊したのかもしれない。現実と幻実、このすれ違い、それが何よりも我慢ならなかった。
イリヤスフィール、彼女は何かを手にしたのだろうか? ただ道具として生み出され、それ以外の価値を与えられず、その意味すら果たせなかった少女。もしかしたら、あのとき何かが違っていたら彼女は何か得ることがあったのか。
……いや、そんなことはもうどうにもならない。理想と現実はずれがあるからこそ、理想と現実なのだから。そのようなこと、物心がついてすぐに叩きつけられた。
ただ、その不公平が気に入らない。それはどんな現実があろうとも変わらない。努力をすれば報われる、そんな親が子供に聞かせるような話、それが答えと信じてきたのだから。だから挫折しなかった、いつか魔術師になれると願い続けた。
「だから、おまえが好きだったんだよ」
ああ、そうだ。認めたくはないけど、認めるしかないじゃないか。間桐慎二に衛宮士郎はまぶしかった。どこまでも愚直に努力を繰り返して、いつ報われるか分からないことばかりしてきて、そんなあいつがたまらなく羨ましかった。
「なあ衛宮、おまえ、手に入れたんだよな?」
そしてもう一人。
「馬鹿みたいに我慢し続けやがって、ああ、やっぱり馬鹿なんだろうな。もうおまえを縛るものなんてないんだから好きにするがいいさ。精一杯喜べよ、桜」
もう目の前。そこを破れば―――
「なんだ、結局ワリ喰ってるのは僕とあのガキだけじゃないか。はん、まあいいさ」
あの少女にも報いてやる。どこまでやればいいのか検討もつかないが、幸いにもやれることの限界は分かってしまっている。
「それに、衛宮、遠坂もだけど、ツメが甘いよ」
着いた。そびえ立つ岩杯。それに寄りかかりながら続ける。
「まったく。やっぱり努力ってものはするに限るよな、なあ衛宮? 何せ僕みたいなのがおまえの―――」
むせ返るような吐き気。赤い、うれしくなるぐらい赤い血が口からこぼれ出る。
「……ははっ! だからさ、おまえの手に入れたものを確実にしてやろうってんだからな……!」
しっかり報われろよ、と。
杯に身を寄せる。全身で抱擁するようにすがりつく。目を閉じて視界を閉ざし、それを皮切りにして全身の全ての感覚を断ち切っていく。
思い浮かべるのはただ構成のみ。体が熱い。熱に浮かされたような心地でつぶやく。
「Stellen Sie」
地響きが起こる。崩れた岩の破片が降り注ぐ。クレーター内に走る回路が強制的に起動させられる。杯が少しずつ欠けていく。時ならぬ覚醒に何かが蠢く。
「おまえ、誰だか知らないけど、おまえ、僕を覚えてるかい?」
何か聞こえたのか、顔をほころばせる。
「はは、案外義理堅いんだな。そうだな、損な役回りだけどさ。それなりに役得でもあったし、なにより―――」
あいつらに恩を返せたかなって思うんだ。貰ったからには返さなきゃだめだろう?
「ああ、悪いけどさ。おまえを出すつもりはないよ。どうせ僕にはおまえを出せるほどの容量もないしな」
この世全ての悪は不満そうに言う。このままでいいのかと、これほどの善行を行いながら悪と伝えられるまま終わっていいのかと。
「いいんじゃないか? 僕達はそういうものだろう?
役立たずで出来損ない、その上悪党。ま、誰かがやらなきゃいけない役さ。おまえと僕と、ユスティーツァ、いいんじゃないか?」
ああ、ユスティーツァが悪党ってのは訂正するよ、と最後に付け加える。
崩壊が加速する。この程度ではこの大空洞は崩れはしないだろうが、もし崩れたら柳洞にまで悪者扱いされてしまう。誰がやったとは分からなくても、その誰かが自分ということでやはり悪者だ。
今までの人生が思い返されるかとも期待していたが、実際はそうでもなくただ残してきた者たちのこれからのことが思い浮かんでは消える。どうせろくでもない過去だ、思い出さなくて僥倖だろう。
さて、悪者は消え去り、正しいと信じきって歩みを止めなかった者が明るく暮らしていく世界。相応しい対価を受けた者たちの世界。出来るのならばそれの上からでも見つめていよう。もしかしたら地の底かもしれないが、どっちでもいい。
それはとてもとてもよいものに思えるのだ。
とうとう目の前の岩にまで亀裂が走る。この大聖杯というシステムが完全に崩壊しきるまでもう僅かしか時間は残されていない。まだ形を保っている杯も、この根幹部分が消えたのならば一瞬で全てなくなることだろう。その崩壊の音こそが自分の終わりを告げる葬送曲だ。
そのときを見極めようと、目を見開く。
破砕は進み、全てはひび割れだらけ。次々と線は伸び、それ自体がこの天の杯の死の具現のような幻視。
―――そして、ついに核が崩壊した。
それはなんと表現したいいのだろう。崩れ落ちる岩の細片と共に慎二の体はその内部へと飲み込まれていった。そこはまるで―――
「―――ユスティーツァ?」
まるで世界が花で包まれたような幻想的な風景の中、その花―――回路の中心部に寝ているように浮かぶ硝子の人形のような女性。大聖杯の核として、システムの心臓として二百年もの間ここでただ回路として起動してきた女性。それを見て、
「やっぱり、似ているな……」
成長したイリヤスフィール。そう言っても誰も異論を挟んだりはしないだろう。その彼女の周囲をめぐる回路にも崩壊は手を伸ばす。硝子細工が砕けるような甲高い音とも共に細と散る。
それと同時にこの小世界は死を告げられた。
倒れこむように内部に導かれた慎二は眠るように止まっているユスティーツァの元にたどり着き、ふらつく体で彼女を中心部からさしたる抵抗も受けずに外した。軽い、彼女はとても軽かった。
岩塊が降り注ぐ。もう何も見えない。轟音の中、間桐慎二は一人たたずみ、その手に物言わぬ硝子細工の聖女を抱き、目を閉じた。
「らしくないな」
皮肉げに口をゆがめ、抱いた美が出来るだけ損なわれないように全身で岩塊から守りながら、やはり自嘲気味につぶやく。
「いやまったく、僕らしくない」