■ 休日 ■
大崎 瑞香
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どうして私はこんな場所にいるのでしょう、とバゼットは思った。
目の前に広がるのはプール。澄み切った蒼い水が広々と広がっている。屋内のライトは灼熱の太陽を真似をして、肌をじりじりと暑く焼いていた。
たとえ外は木枯らしが吹く冬でもこの中は真夏そのもの。
わくわくざぶーん。
全季節全気候対応の遊泳レジャー施設はその広々とした空間と雰囲気によって、どこまでも青く広大な真夏の海を演出していた。
そんな中、ぽつねんと立ちすくむ紫がかった赤髪の女性。
どうしていいのかわからず、また狼狽えることさえもできず、寄せては帰る波打ち際にバゼットは呆然と立ちすくんでいた。
「――おい、そんな格好かよ」
と後ろからの声にようやくぎくしゃくとバゼットは動き出す。そこに立つのはランサーだった。海水パンツといつものアロハ、そして妙に似合う麦わら帽子の出で立ちでたっていた。
いつも飄々とした顔に浮かぶのは無念そうな顔。その視線はバゼットに注がれていた。
その視線から庇うようにバゼットは両手で自分の体を抱きかかえると、ランサーを睨みつけ、キツい口調で詰問した。
「……ひとつ聞きたいことがあります、ランサー」
「あーそんなことよりも」
「そんなことより?」
バゼットの柳眉が吊り上がり、視線がさらに冷たく、キツくなる。しかしランサーはそんなことに一切気に留めることもなく、大げさにわざと大きく溜め息をついた。
バゼットはこの施設内であっても、いつもの臙脂色のスーツ姿だった。
「せっかく、プール来ているのに、なんだよその格好」
「当たり前です」
何を根拠にだがわからないが、きっぱりはっきりすっぱりと自信満々に言い切るバゼット。
「だいたい私は士郎君の警護の仕事についている最中だというのに、こんな施設まで無理矢理ひっぱってきたのはランサー、貴方です」
「いやぁ、そりゃそうだろ」
それに対して、同じくきっぱりはっきりすっぱりと言い切るランサー。
「だってデートだから」
その一言に絶句する男装の麗人に対してにやりと笑みを浮かべて、蒼髪の青年は立て板に水とばかりにまくしたてた。
「じゃあなんだ? 年頃の女性と男が一緒にレジャー施設にいるんだ。それを世間一般的にはデートもしくは逢い引き、というと思うんだが」
「あ、逢い引きって……」
「違うのか?」
「ち、違います!」
またしてもはっきりすっぱりきっぱりと言い切るバゼット。しかしその頬は朱色に染まっていた。
「そ……そう、私は仕事をしていまして、その途中で貴方に強引につれてこられたのです。――そもそもデートとはきちんと約束を取り付けて行うものではないのですか? こんなのはデートとはいいません」
「仕事って坊主の護衛か?」
「はい」
「それは違うだろう。
あの坊主にはセイバーがいるし、近くにはライダーもいるんだ。英霊が2体も守っているのに、さらにお前が守る必要なんてないだろう」
ランサーは肩をすくめ、やれれや仕方がないといった風情で否定する。
「――だいたい、今この街は護衛しなければならないほど危険なのか? ん?」
そこんとこどうよ? というランサーの視線にバゼットは詰まる。
ここで生計を立てるために強引に割り込んだ仕事である。はっきりいえば正式な仕事をつくまでのつなぎ、腰掛けといってもいい。まぁだからといってバゼットは一切手を抜かない几帳面かつ不器用な性格だから大惨事を引き起こしそうなったこともあるのだが、それは別の話。
とにかく正論でこられるとバゼットは弱い。しかも強引にやっているということで引け目を感じているから、さらに弱い。
「それにさ」
ランサーは返答に窮しているバゼットに笑いかける。
「俺はちゃんと坊主に許可をとったぞ」
「許可って」
「ほらあんとき、きちんと坊主に、お前を一日借りるぞって……」
「それは許可といいません! 士郎君が返答する前に私の手を掴んで引きずっていったのではないですか!」
「……まぁそのあたりは後ほどとして――」
「ランサー!」
怒るバゼットに、まぁまぁと宥めるランサー。
「でもここに来ちまったんだから、諦めろ」
「諦めろって」
「諦めて、この一時を楽しもうぜ」
「あなたっていう人は……」
何か言おうとしてバゼットは口を開くが、言葉にならず、代わりに盛大な溜め息が漏れた。
「坊主だって、お前に休暇をあげようって画策していたのは本当だぜ。だからちょっと早めのヴァカンスをとったつもりでな」
「まったく、ランサー。なんでいつもそう貴方はいい加減で思いつきで行動しているのですか」
「そういうお前だって」
「私だって?」
「そうさ――」
不敵に笑うランサー。
「――お前だってなんだかんだ行ってここまでついてきたじゃないか」
それを言われるとバゼットは辛い。護衛の任務中だけど、強引にひっぱっていくランサーに少しだけときめいてしまっただなんて言えない。触れられた箇所が熱くて胸がドキドキしただなんて、言うことなんてできない。そんなことがこの目の前の男に知られたら、死んでしまうぐらいに恥ずかしい。
そんなバゼットを横目で見ながら、ランサーは携帯を取り出すと電話をかける。
「あ、セイバーか。俺だ、俺。坊主がいたら出してくれ」
「ランサー、貴方どこに」
「まぁ待てよ。ってああ坊主、今さっきは悪かったな。いやよく考えればきちんと返事を聞いてないなと思ってさ。ほらバゼット嬢ちゃんを一日借りようと思ってな。
ほらあいつ意外と気づかないからさ。そうそう生真面目すぎるんだよ。そうだろ。うんうん。そう思うだろ。な、そういうことで」
「ラ、ランサ……」
「ほら」
咎めようとするバゼットに差し出される携帯。それをしぶしぶ受け取る。
『あ、バゼットさん』
「ごめんなさい、士郎君。ランサーが強引で」
『いいよ、ランサーが言うのももっともだし』
「もっともって……なんですか」
『じゃあ突然になってしまうけど、今日一日は休日でいいから』
「じゃあって、いいからって士郎君」
『じゃあ、ランサーにもよろしく』
「あ、あの……」
聞こえるのは接続が切れた音とツーツーと虚しい音のみ。
「……」
「……」
「……」
「……」
「――な」
「な、じゃありません!」
風来坊よろしくのほんとしているランサーの態度に、バゼットはどうしていいのかわからない。文句を言えばいいのか、それとも休暇を強引に奪ってことを叱ればいいのか、いろんな感情が渦巻いて、言葉にならなかった。
「バゼット」
「――」
そのときのランサーの顔はいつものちゃらんぽらんな男の顔ではなく、無頼奔放な戦士のそれだった。引き締まった顔つきとその鋭い眼光にバゼットは黙った。
「休息もひとつの武器だ。抜くときは抜け」
「………………わかりました」
バゼットは頷いて答えた。数々の武勲をたて、戦い抜いた光の御子の言葉にしぶしぶながらも納得した。
「せっかく士郎君からいただいた休暇です。楽しまないといけません」
「おお、そうこなくっちゃ」
女の言葉に破顔一笑。とたん無頼奔放な戦士のそれからいつもの顔に戻った。
その笑顔にバゼットはドキリとする。たった数日側にいただけなのに、その笑顔に見慣れていた。見慣れているのにドキリとさせる顔。やんちゃ坊主のような笑みになぜか胸が甘く疼いてしまう。
それを誤魔化すように、憮然とした表情でバゼットはしゃべった。
「……ですが、私」
「どうした?」
「水着なんて持ってきていません」
「ああ、新しいのを買えばいいだろ。ほら」
そういって無造作に茶封筒を差し出すランサー。
「駄目です」
「いいってさ。デートの時に代金を持つのは男の甲斐性だ」
「……デートって」
「言ったろう、デートだって」
「……」
バゼットにはデートという言葉が意外に大きく響いてきこえ、狼狽えそうになる。社交辞令、いつもの軽い口調。そう、そういうものだと瞬時に判断し、自分に言い聞かせる。
その悩んでいる間も、揺るぐこともなく、封筒は差し出されたまま。バゼットはしぶしぶといった様子で受け取る。
「ではお言葉に甘えます」
そう言ってきびすを返す女性用更衣室へと向かう。
おい、という後ろからの呼び止めに怪訝そうに振り返るバゼット。ちゃらんぽらんな青髪の男がにやにやとした笑みを浮かべていた。
「水着を選んでやろうか」
「結構です」
「なるべく露出の多い、セクシーなヤツが俺はいいな」
「何を言っているんですか、ランサー!」
はは、と笑いを浮かべるランサーに背を向けて、バゼットは小走りで走り去った。
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「――おい、そんな格好かよ」
出てきたバゼットを見て一言、ランサーはとても残念そうに言った。
バゼットはいつもの臙脂色のスーツを脱いではいたが、上はウィンドジャケットを着込んでいるため、どんな水着をつけているのかわからない。綺麗に伸びたしなやかな脚は健康的であるから、その上もさぞ、と想像できる。そしてあのお堅いスーツの上からでもはっきりとわかるほど、豊満な体つきをしているのだ。期待しない方がおかしい。けれど、それは男の目にさらされることなく、ウィンドジャケットの中に秘めやかに隠されていた。
もうちょっとサービス精神が旺盛でもいいだろう、とランサーは心の中で悪態をつく。
「――何かいけませんか、ランサー」
バゼットはそんな男の気にもせずに、しれっと言い切ると解放感溢れるプールを眺めた。
ひさしぶりのレジャーにバゼットの心は躍っていた。横にいるランサーも気になる。けれども休暇でレジャーというならば、レジャーを楽しむ。とことん、骨の髄まで、完膚無きまで、徹底的に楽しみ尽くす。それがマクレミッツさん家のバゼット嬢流。
そんな花より団子といった態度にランサーは、まぁいいか、と呟く。
キビキビと仕事をしているキャリアウーマンそのものといったお堅いバゼットもよかったが、こうして真夏の太陽の下、肩から力を抜いて自然に笑うバゼットを見ると、なかなか悪くないと思った。悪くないどころか魅力的といってもよかった。
何か言いましたか? とこちらを振り返るバゼットにランサーは、別に、答えると同じくプールを見た。
人工太陽で汗ばむほど暑く、蒼い水は冷たくて気持ちよい。潮風はなかったが寄せては帰る波は水へと誘惑していた。
肩をすくめる男を横目に見ながら笑顔を浮かべるバゼット。
実際のところいくらなんでも花より団子とは申しません。花(ランサー)も団子(レジャー)も両方とも欲しいだなんて思ってしまう、そんなお年頃なのです。
「――それにしても人がいませんね。どうしたのでしょうか?」
鳶色の瞳で周囲を見回すと不思議そうにバゼットは呟いた。
これだけの大きな施設なのに、プール際には誰もいない。もちろんプールで泳いでいる人もいない。大半の売店もシャッターが締まっている。なんとか水着売り場が開いていたのは僥倖だった。でなければ外にまで買いに行かなければならなかっただろう。
それにしても誰もいない。ただ人工の真夏の太陽が照らし、碧色のプールがさざ波をたてているだけ。
まるでプライベート・ビーチかプライベート・プールのようだった。
「ああ、貸し切りだからな」
驚きの表情を浮かべるバゼットに、こともなげに言い切るランサー。
「ああ。あいつがまだガキのまんまだったから。きちんと交渉したら気前よく貸してくれたよ」
「これほどの施設を惜しげもなく、ですか?」
「――ん。いや本当は今日は点検日で終日閉館。だけど実際は点検は午前中で終わっていて、空いている時間に入らせて貰っているっていうところだ」
「ああ――なるほど」
「なぜ、そこで納得する?」
「い、いや別に……」
おいおい俺がすっかっぴんの甲斐性なしだと思ってないか、なランサーの視線を受け、バゼットはそっと視線を逸らす。
本当にそんな風に思っていやがったんだな、と苦々しく笑みを浮かべる男に女は慌てて弁明をし始める。
「……だ、だってあのシスターがこれほどの施設を借り切るだけの費用を貴方に渡すとは思えませんし、それに――」
いつものバイトでは無理でしょう、と確認するような視線にランサーは苦笑で答えるしかなかった。
「まぁそういうところで、大半の売店は閉まっているが、それ以外は施設としては動いているから大丈夫だ」
そうして視線を海に向ける。つられてバゼットも向いてしまう。
人工太陽が肌をじりじりとやき、汗ばませる。からりとした空気が汗ばんだ肌を撫でていく。
涼しそうな水辺が目の前に広がっていた。波に太陽が反射してキラキラと輝いていた。さざ波がたてる波の音が静かに響いてくる。
甘い水の誘惑。
「さぁランサー、遊びましょう!」
待ちきれない子供のようにはしゃいだ声をあげて、バゼットはプールへと飛び出していた。おいおい、と思いながらも、ランサーも蒼く冷たいブールへと続いて駆けだしていた。
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「あぁ楽しかったです。でももう泳ぎ疲れました」
バゼットはプールサイドにある椅子に腰掛けると、満足そうにいった。そんな彼女をおいおいといった表情で見ているランサー。
(――タフだな)
ランサーははしゃぎ、遊びまくった女性の満足そうな顔を見ながら、素直にそう思った。
むろん英霊であるランサーはこの程度では疲れることはない。けれども常人ならばへばってしまうほど、駆け回り、泳ぎ回り、めいいっぱい楽しんだのだ。それだけでもなく、なんとバゼットはプールの中に入るときでさえ、ジャケットを脱ぐことなかった。
――っていうか、普通ありえないだろう。
ジャケットの水の抵抗はかなりある。普通ならまず絶対に溺れる。泳ぐことさえままらないはずだ。救助の時に絡みつく濡れた服は二次遭難を度々引き起こすやっかいな品物だ。泳げたとしてもスピードが落ちることは必至。いくらバゼットでもそうなれば素直に脱ぐだろうと軽く考えていた。
そうすればその肢体をさらしてくれるに違いないと男の欲望もあって、平然と構えていた。もちろん溺れるかもしれない。いつでも助けられるように注意をはらっていたが、バゼットの細い体のどこにそれだけの体力があるのか、強引にウィンドジャケットを着込んだまま泳ぎ切り、力業で遊びきったのである。
バゼット・フラガ・マクレミッツ、まさに恐るべし。
彼女はバスタオルで濡れた髪をそっと優しくいたわるように拭う。その顔に浮かぶのは軽快な心地よい疲労。しかしその瞳はいまだ活き活きとした光を湛えていて、プールの澄んだ水面を物足りなさそうに眺めていた。
それからランサーの方へ視線を動かすと、
「でも少々疲れましたね。はしゃぎすぎました。明日の護衛に支障がなければよいのですが」
と、泣き黒子の顔が陽光下、素直な笑みを浮かべた。
その顔に釣られるように、ランサーも隣にあった椅子に腰掛けた。
騒ぎ立ててはしゃいだ後に起きる空白。
それはいつもと変わらない波音で埋まっていく。
心臓の鼓動と重なるそれは、そのまま吐息にも重なっていき、二人は安らぎを覚えた。
照りつける人工太陽はいまだ強く、暑く活発な夏を演出していたけど、二人はそんな日差しの下で騒ぐこともなく、微睡むように静かに椅子にもたれかかっている。
昂ぶった神経をやさしく撫でつけられるように、やさしい水の音が低く、低く、さらに低く、まるで眠りに誘うように響いてくる。
互いにかける言葉はなかった。言葉をかける必要もなかった。ただ側にいる、それだけでいい。
バゼットはランサーに対して何かいろんな思惑や言いたいことがあったのに、それがすべて溶けて、何処へ行ってしまった。
軽い疲労と興奮が醒めた気怠い雰囲気と静かな波音。
背を預けられる相手との言葉もいらない一時。
静寂に広がる、たゆんだ時間にただ酔いしれる。
そんな長閑なプールサイド。
バゼットは横に座るランサーを見る。
筋骨逞しいが、だからといってボティビルダーのように見せるものではない実用的な体格。様々な英雄譚に現れる戦士に勝るとも劣らないその躰は今は静かに横たわり、休息を満喫していた。
槍の英霊はうち寄せてはひく波をただ見ていた。
その横顔をバゼットはただ見つめる。
静かに波を見つめるその横顔は、いつものおちゃらけた雰囲気はなく、逞しくしなやかで美しい獣がそこにいるのを思わせた。
猟犬と呼ばれる英雄のひきしまった横顔を見ていると、バゼットの胸はかすかに痛んだ。今さっきどこかへいったはずの様々な想いが胸に渦巻いていた。
そのせいです、とバゼットはその豊満な胸を押さえた。手のひらで胸の鼓動を感じながら、胸がこんなにかき乱され苦しいのは失ったサーヴァントと共に過ごしているからです、と思うことにした。
今見つめていたランサーの横顔に見惚けてしまったためではありません、と否定する。けれどその横顔を見ているだけで落ち着いたはずの胸は高鳴り、動悸が収まらない。なぜか顔が熱くなる。きっと頬から火が出ているのに違いありません。そう思うほど頬が火照っていた。
なのにこの未知なる感覚をずっと味わっていたかった。出来る限り酔いしれていたかった。
だからだろう、いつもの調子と違ったのは。
いつもならば軽口を叩くランサーを叱り、怒るだけなのに。
今そんなことはできない、特別な、そうまるで魔術のような時間だった。
今はただこの胸の動悸に甘く痺れるように酔いしれたかった。
しばしの間、うっとりとした瞳で女魔術師は自分の英霊を見つめた。
「――そう言えばです、ランサー」
「ん、なんだい」
この二人では珍しい、やや間延びした長閑な声。
……あの……その……と少し口の中でもごもごとして言葉にならない。バゼットは男を見つめているのができなくて、視線を水面に向けると極めて冷静な口調で切り出した。
「――なんで、私を」
「――ん?」
「なんで私を誘ったのですか?」
視線は静かな水面に向けたまま、バゼットは尋ねた。ランサーの方を向くことは出来なかった。なんだか顔が熱くなるのがわかる。なんだかランサーの顔を見てしまうと、別のことを言い出しそうで、言ってしまいそうで、怖かった。
長閑なプールサイド。長閑な休日。なのに、バゼットの心臓は今さっきまではしゃいでいた時より激しく、より熱く鼓動を拍っていた。
「貴方がいつもいろんな女性に声をかけているのは士郎君からも聞いていますし、私自身も時折、そんな姿を目撃しています」
そう、とバゼットは口の中で聞こえない様に呟く。私でなんてなくてもよかったはずなのに、なぜ――。
そんなことを思うと、胸の奥がチロリと炎に舐められたように熱く、火傷したかのような痛みを覚える。
今さっきまで楽しくはしゃいでいたのに、そんなことを考えずに遊んでいたのに、なのにこうして落ち着いてみると、何かが胸の奥でざわめいてしまう。
男の返事を待つが、答えは返ってこない。
ランサーは返事もせずに、ただ静かに女を眺めていた。その瞳に浮かぶ光は何色だったのだろうか――。
その瞳に浮かぶものを読みとろうとするが、それは一瞬のうちに淡く消え去ってしまった。
いつものランサーとは思えなかった。いつもの、あの陽気でおちゃらけているクー・フーリンではない、とバゼットは思った。
途端、胸の奥がさらにざわめく。熱く、さらに激しく、より昂ぶるように、激しくなる。その瞳に掻き回されてしまう。
卑怯です、そうバゼットは思った。期待してしまいます――そう思って、私は何を期待しているのでしょうか? とふと自答自問する。
期待して裏切られるのはいつものこと。マクレミッツ家を出て協会に属した時も、そして言峰綺礼に再会した時も。
いつも甘い夢をみて期待して、現実では何も手に残らない。
なのに、それでも期待してしまう愚かな自分に、バゼットは自嘲するしかなかった。
「――――そうだな」
静かなランサーの声。さざ波に混じって耳にやさしく響く。考えているのか、それとも考えていないのか。無頼かつ奔放に生きた戦士は黙り込んでしまった。
バゼットは答えを想像する。この気の多い奔放な槍の英霊ならなんて答えるだろうか、と。
私が良かった、とか――そんな事を考えて、そんなバカな、と自嘲する。もしそうならばランサーはすでに自分を口説いているでしょう。
未成年――まぁランサーが生きていた時代ではとっくに成人でしょうが――も口説いていたぐらいなのだから。
そんなこと、あるわけない。
それではなんでしょうか?
しばしバゼットは蒼い戦士の横顔を見ながら、想いを巡らせた。
いろんな考えや想いが渦巻き、現れては消える。
どれも不確かで、なにもかも不鮮明で、はっきりとしない。
多分――多分、なんとなく?
その言葉を思い浮かべた時、なんとなくやっぱり、と思ってしまう。
英雄色を好むではないけれど、ランサーはいつも異性に声をかけている。だから今回も手に届く異性ならば誰でも良かった。それが手近にいた私だっただけでしょう。ただ――それだけ。
それとも――違うのでしょうか?
そう考えたとき、胸の鼓動が高鳴った。
まるで思春期を迎えたティーンエイジャーのようだ、と思う。任務のために人を殺めるのも、勝つために戦い抜くことも、なにもかも慣れたというのに。
なのに、ランサーの横顔を見ているだけで動悸が激しくなってしまう。頬が熱く燃えているよう。こんな顔をランサーに見られたら恥ずかしいと思う。だからといって顔を隠すことなんてできなかった。
ランサーがなんていうのか、きちんと聞きたかった。どう想っているのか、どう想われているのか、それが知りたくて仕方がなかった。
「――お前だから、かな」
「私だから?」
「そうだ」
二人の間に再び沈黙が落ちた。
男の答えは女にはよく判らないものだった。私だから、だから――なに? そう問いつめたくなる。我慢できずにそう尋ねてしまいそう。
けれどランサーの真摯な表情は、喉から出てきそうなバゼットの言葉を押しとどめた。
いつもの皮肉めいた顔でもない。
いつもの飄々とした顔でもない。
そして知っている戦士としての顔でもない。
バゼットが知っているはずのランサーの顔はそこになかった。それがバゼットを落ち着かせない。知らない男の貌に、バゼットは狼狽えて、視線を逸らした。
見ていられない。
見てなんかいられなかった。
――どうして、と我が儘を言ってしまいそうな自分がいた。光の御子クー・フーリンに対して問いかける言葉ではありません、と思った。
マスターであるはず。
自分が召喚した英霊のはず。
この冬木市独特の聖杯戦争で勝ち抜くため選び、召喚したのがアイルランドの英霊クー・フーリン。
猛き蒼い猟犬である彼と一緒に戦い抜く予定だった。
しかしそれは叶うことはなく奪われ、バゼットは脱落した。
マスターなのに。
なぜかそれが突然悔しくなった。悔しさがバゼットの胸を痛いぐらいに掻きむしる。未だふさがっていない傷口が開く。聖杯戦争に破れたという思いが、言峰に裏切れたという思いが、血を流している傷口をひどく掻きむしる。
痛い。痛かった。痛みで躰が震えてしまうぐらい。
こうしてランサーの横にいていいのでしょうか? とも思った。
マスターだからいいのです、という考えと、もう自分はマスターではない、という思いがバゼットの心を妬く。苦しいほどに、狂おしいほどに心を揺り動かす。
マスターとして何も出来なかった。
だからこそこれからマスターとして振る舞いたい。
マスターとしてランサーに接していたい。
そうでないと――。
影が覆い被さり、バゼットははっと見上げた。ランサーがいつの間にか椅子から立ち上がり、彼女の側に立っていた。
見下ろすような視線に、バゼットはつい顔を背けてしまう。
どうしたのか、そんなランサーの顔を見ることが出来なかった。胸がドキドキする。胸が苦しくなる。
辛くて、苦しくて、どうしようもない
胸の奥にある疵が、どくどくと血を流す。その赤い血の中で自分が溺れてしまいそう。いや、溺れているのだと、彼女は思った。
しかしそれは止めようもない。止めることもできない。どうしようもないほど、深く抉られた疵に。
どうしよもなく、頼る者もなく、縋るものもなく。
言峰綺礼も、アンリ・マユもいなくて。
ただこの痛みから逃れたくて。
耐えがたい苦しみから目をそらしたくて。
逸らしてはいけないとしていたものから、つい逸らしてしまいたくなって――つい弱音を漏らした。
「私は……マスター失格です」
ランサーのマスターであるという自負。
いつかあの毒舌シスターから令呪を取り戻すことを誓い、日々交渉していたというのに。
しまった、と思うとランサーを見た。途端、影がさらに覆い被さる。それぞれの手を伸ばしてチェアの肘掛けを掴み、ランサーはバゼットに覆い被さっていた。
ランサーが怖くて顔を見ることはできなかった。
言った。言ってしまった。言ってはいけないことを言ってしまった。
自分がランサーの、クー・フーリンのマスターであると言っていたのに。
たとえどんなことがあっても言ってはいけないと思っていたのに。
取り返しのつかないことを言ってしまった。
「今、なんていった、バゼット?」
「ち、違うのです、ランサー」
否定しないといけない。
私がマスターであると。ランサーであるクー・フーリンの主であると、そう宣言しなくてはいけないというのに、唇がわなわな震え、喉から漏れるのはただ吐息ばかり。言葉にならず、それは消えていった。
二人は手を伸ばせば触れることが出来る距離なのに、バゼットにはそれが無限に思えるほど遠い距離に感じられた。
遠すぎて、あまりにも遠すぎて、触れることが二度とできないと思い知らされるような、絶対的な距離。
「――そうか」
重々しいランサーの言葉に、バゼットは目の前が真っ暗になってしまう。
泣きたくなる。違う。泣いてはいけない。私はまだランサーのマスターなのだから。たとえ令呪がなくても、たとえ聖杯戦争から脱落したといっても、私はクー・フーリンの主なのだから。
「……、ラ、ランサー、ち、違いま……」
説明しければ、きちんと伝えなければならない。
自分がまだマスターであるということを。
覆い被さるランサーをきちんと対峙しようと顔を上げると、そこにはランサーがいて、にやりと笑っていた。
その笑みがとても底意地が悪く見え、バゼットの胸を苦しくさせる。それが嫌で顔を背けようとするが、ランサーの指で引き止められた。
ランサーの指に引き上げられて、二人は向かい合う。
濡れた視線が縋るように絡み合う。
熱い吐息が甘く溶け合う。
何か言わなければ、とバゼットは思うが言葉はでない。
ただランサーの、その視線に、その吐息に、その指先に、その口元に、ただただ引き寄せられてしまう。魅せられてしまう。どうしようもなく、肉体ばかりか心まで絡み捕られてしまって――心が震えた。
真摯な表情をしているランサーに対して、逡巡も躊躇も何もなかった。
バゼットはねだるように瞳を閉じ、甘えるように顔を上げ、乙女のように恥じらいながら唇を差し出す。
そしてそれに被さるようにランサーの顔が近づくと――。
「ラヴラヴですね、お兄さんお姉さん」
ピタリと固まるふたり。
「えぇ、まったくです。見ているこちらが恥ずかしくなってしまいます」
錆びついた音を立てているのではないか、というぐらい不自然でギクシャクした動きで、二人はその声をした方を見る。
そこには金髪の利発そうな少年とカソックを着た白髪の少女が佇んでいた。
バゼットの頭の中は真っ白になる。何も考えらず、動くことさえできない。
「なななな、なに覗いていやがんだよっ!」
ランサーは彼女から離れると、二人と対峙する。
「何って、視察ですよ」
「ああ?」
怪訝そうな顔をするランサーに、わかってないですねーと言わんばかりに肩をすくめる幼いギルガメッシュ。
「今日は一応点検日ですよ。最後は市からの監査も来て安全確認するんですからね。だから一応確認するために見て回っているんですよ」
「――ランサーったら、プールサイドで口説くのはかまいませんが、衆知の場でそのようなことをするのはいかかでしょうか? マスターとして恥ずかしいですね」
「――って安全確認なんて聞いてねーぞ。それにマスターとして恥ずかしいったぁなんだ」
「点検日だということはきちんと伝えたはずですよ、ランサーさん」
「あらあら――わかりませんか、ランサー?」
徐々に理解しはじめるバゼット。
真っ白な頭にゆっくりと情報が入り込み、それを理解しはじめると。
かぁっと赤くなる。熱くなる。目の前が白から赤に。
端麗な美貌が見る間に赤く染まり、まるで火が出ているよう。火にくべられた薪か熟れたトマトのような色に染まると、口を一二度大きく開ける。
そんなバゼットを無視して三人は口論を続ける。
「点検日としか聞いてねぇよ、まったく。そういうこともあるのならきちんと言えよ。あとな、俺がどこでどんな風に口説こうが関係ねぇだろうが」
「いえそのあたりぐらいならきちんとわかっていると思っていまして、僕の思いこみでしたね。すみません」
「あら――男性として女体に興味があるというのならば、そう言えばいいのに。そうしたら――」
「――わかった。俺も考えが浅かった。そういうな。こっちの調子が狂う。それにそこのちんまいの、5年は早え。俺はガキんちょには興味ねぇ、もうちょっと出るところが出てから言え」
ふるふるとバゼットの体が震える。
見られた。ランサーに唇を許そうとしていたところを、二人に見られていた。しかもよりによってマスター権を争っているカレン・オルテンシアに見られてしまった。
バゼットは立ち上がる。突然のことに3人の視線がバゼットに注がれる。
バゼットの顔は奇妙な百面相を見せた。赤くなり、また青くなり、怒っているのか泣き出しそうなのか、それさえも判らない奇妙な顔をする。
ウィンドジャケットに隠れていてもわかる豊満な肉体をふるふると震わせると。
何一つしゃべることもなく、バゼットは脱兎のごとく走り去ってしまう。
唖然として逃げるバゼットの後ろ姿を眺める、置いてけぼりな三名。
「――ちっ」
ランサーは軽く舌打ちすると、覗き見した二人に釘を差す。
「とにかく、一日中借りることになってんだから、悪いけどもうちょっと使うからな。あと腐れマスター、話がこじれる。これ以上ちょっかいかけんな」
そう言い放つとランサーは逃げ去ったバゼットの後を追いかけて走り始めた。
二人の姿が視界の外から消えると幼いギルガメッシュはまた肩をすくめ、横にいるマスターを見る。白いシスターは穏やかな笑みを浮かべ、二人の方を見つめながら、祈るように両手を組んでいた。
「まったく騒々しい……」
愛おしいものを見るようなそんなやさしい光を湛えた瞳で消え去った方を見つめながら、カレンはそっと呟く。
「……まぁ逃げた女の人を追いかけていったことはちゃんと評価しましょう。もし行かないような惰弱な根性をしていましたらマスターとしてお仕置きするところでしたわ」
言っているのは過激なのに、その言葉は優しく響いた。
「さぁて、マスター」
ギルガメッシュはマスターに微笑みかける。
「お腹でもすきませんか。実は点検と同時に改装するお店がありまして、そこの商品を試食することになっているんですよ」
「あら――気を利かせるなんてどうした風の吹き回しかしら」
「うーん、まぁせっかくだし」
「ちゃんと私が食べることが出来るものがあるのかしら?」
「甘口から激辛20倍まで選べるカレーと夏野菜のサラダ、そして甘いマンゴープリンの予定ですよ」
「あら――」
カレンもギルガメッシュに微笑み返す。
「――貴方も20倍につき合うかしら」
「いいえ」
ギルガメッシュもにこやかに笑うときびすをかえし、こちらです、とカレンを案内するために歩き出す。
「僕は甘口のマイルドカレーでも食べますよ」
「つき合いが悪いのね、貴方って」
「えぇ――つき合いは悪い方なんですよ、僕って」
シスターも先導に従って歩き始める。
「もしかして、貴方は本当は私のこと嫌いなのかしら」
「えぇ、本当に貴女のことは嫌いですよ」
「……どういう風の吹き回しかと思っていたら、ギルガメッシュったら――」
そんなことを言い合いながら、二人は改装した店舗へと歩いていった。
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ランサーは彼女が逃げ出した方へ走る。たとえどんなに鍛えたとしても生身の体。英霊を負かすことなどできない。加えて猟犬と呼ばれる英霊から逃れることなど、たとえ魔術師であったとしても不可能だった。
ランサーは濡れた足跡を追って彼女が逃げ込んだ場所、女子更衣室へと飛び込んだ。
中を覗けないようにS型になっている通路を通り抜け、ずらりと並んだロッカールームへと入る。
そこにはバゼットがいた。髪を拭くためかそれとも顔を隠すためか無地のバスタオルで頭を覆っていた。こんな時でもきちんと手荷物を持ち帰ろうとしているのが、彼女らしくてついくすっと笑ってしまう。
バゼットはバスタオルの隙間から睨みつけていた。
その姿は美しかった。
憤怒のためか羞恥のためかわからないが、濡れた瞳は強い意志の光を湛えていた。にらみ付ける視線は鋭くまるで肉食獣のよう。怒りに満ちた顔は強く引き締まっていた。けれどそれはどこか艶めかしい。濡れた髪が額に張りつき、その水滴は彼女の躰にぬめりを与え、野性的な色香を醸し出していた。
ウィンドジャケットで隠された躰は豊満でありながらもしなやかで動きに無駄はない。
強い意志を湛え、張りつめた雰囲気を維持して、しなやかな肉体を持つ気高く美しい獣がそこにいた。
「ランサー、ここから出ていきなさい」
今さっきまで男にみせていたものとはまったく違う硬い口調で吐き捨てるように言い放った。
「――もうこんな茶番はやめにしてください」
しかしランサーは返答することなく彼女に一歩だけ歩み寄った。
彼女は気丈にもこちらをにらみ返してくる。
その視線がランサーには心地よいものだった。
強い戦士を目の前にした時に感じる、戦いの予感にも似た高揚感に包まれながら、ランサーはバゼットに手を伸ばそうとする。
バスタオルが舞う。
と同時にバゼットがワン・ツーを放つ。
硬く握られた拳は真っ直ぐな軌跡を描いてランサーの胸を叩く。
ニブい音が響く。
腰の入ったいいパンチだった。
しかしランサーはそれでも歩みを止めない。
それを見てバゼットは意志を固めた。
「出ていきなさいと言ったのです」
バスタオルが床に舞い落ちる。
それでも気にせずランサーは前に進む。
また左、右と拳が放たれる。肩を入れ、前に進むランサーを押し返すような拳。
けれどランサーは止まらない。
それを見たバゼットはフェイントの左を顔へと放つ。
頬に軽く当て、注意を引く。と同時に勢いをつけて肩から前に滑り込む。
体重をのせる。
踏み込んだ脚に体重を乗せ、腰をひねる。
左を引きながら、そのまま右ストレートを放つ。
狙うは鳩尾。
貫くように振り抜く。
決まった。
はずだった。
しかしランサーは立っていた。
無表情のまま、バゼットを見つめていた。
「殴るならいくら殴ってもいいぜ」
そういうとランサーはさらに歩み寄ってくる。
さらに殴る。
殴りつける。
殴り続ける。
けれどランサーは止まらない。止められない。
後ろへ下がって間合いを取りながらバゼットは殴り続けるが、それも壁にあたってしまい、間合いを保てなくなる。
追い詰められた。
しかしバゼットの意志は揺るぎもしない。
ただ固めた拳とそれよりも硬く固めた意志によって、ランサーを拒む。
左で軽く牽制して隙を見いだし、横へ逃げようとする。
けれどランサーは揺るぎもしない。
ランサーは両手を大きく開けて、左右の逃げ道を塞ぐ。
ガードもなにもない胴体を何度も殴りつける。
「――っ」
悔しかった。なにかわからないけれど、パゼットはとても悔しかった。
見られた恥ずかしさも確かにある。けれど今はこのランサーの不貞不貞しい態度か癇に障った。
いつでも殺せるというその余裕に満ちた態度は女魔術師の矜持をいたく傷つけた。
悔しい。くやしい。クヤしい。
手のひらで玩ばれている感覚に。
猫にいたぶられるネズミの感じに。
何も出来ないという無力感に。
口惜しさが募る。
何がなんだかわからない。今ランサーに対して何を思っているのか、バゼットはわからなかった。ただ混沌とした情感が胸の中に渦巻いていた。
ただ、辛さが。
ただ、口惜しさが。
ただ、羞恥が。
ただ、怒りが。
ただ、それだけがあった。
ただそれだけがあるはずなのに、それらが入り交じり、はじけ、圧力となってバゼットを突き動かす。
どろりとした汚い感情とさらりとした綺麗な感情が、彼女を駆り立てる。
どうしたいのか、どうしていいのか、それさえもわからず、ただバゼットはその想いをぶつけるように、ランサーの腹を殴り続けた。
「なぁ――」
どのくらい殴り続けたのだろうか、拳も殴りすぎて痛みと熱を帯び始めた頃、ランサーは静かに語りかけてきた。
その静かな口調にバゼットの手は止まった。じんじんと痛む。稽古で殴りすぎた時に感じる痛みを覚えながら、バゼットは顔を上げた。
「――どうして泣いているんだよ」
その言葉にようやく彼女自身も泣いていることに気づいた。
その強い意志の光で満ちた瞳に溜まった涙がこぼれ、きらきらとまるで宝石のように煌めいている。
バゼットにもわからなかった。
なぜ泣いているのか。
なぜ悔しいのか。
なぜこんなにも辛いのか。
なぜ――。
途端、ランサーはやれやれといった表情を浮かべる。その余裕綽々の顔がバゼットにはいけ好かなかった。
「み、見ないでくださいっ!」
と同時に左を放ち、ランサーの頬を殴る。右手は顔を庇って見えないようにする。
けどその右手をランサーが掴み、その泣き顔を強引に晒した。
「……なぁ――」
低いランサーの声が静かにロッカールームに響き渡る。
静かに、ただ静かに、染みいるように。
「――俺はお前のことが好きだぞ」
その瞬間、バゼットは卑怯だと思った。
好き、だなんて言葉を使うだなんて――なんて卑怯。
なのにその言葉が胸に響く。
静寂に響く告白はあまりにも心地よく、なんだか悔しくて、切なくて、苦しくて、狂おしくて、そして――嬉しかった。
そんなバゼットをランサーは胸にそっとかき抱く。
優しくいたわるように、その厚い胸板の中にバゼットを入れて包み込んだ。
その優しい温かさにバゼットは吐息を漏らし、ランサーを見上げた。
奔放無頼の戦士。
猟犬と呼ばれる槍の英霊。
アイルランドの伝説の英雄。
クー・フーリン。
そんな男が優しく、愛おしく腕の中の女を見つめていた。
「……嘘です」
虚勢だった。
バゼットはそう言うしかなかった。それでしか抵抗できなかった。
こんなにみとれてしまうというのに。
こんなにも見つめてしまうというのに。
「私のことを好きだなんて――そんなの嘘です」
いつも期待していつも裏切られてきた。
実家でも。
協会でも。
冬木市でも。
いつもそうだった。
寄る辺を求めて手を伸ばすたびに。
何かを捜して足掻くたびに。
何も得られない。
手のひらには何も残らない。
それでも。
いつかと信じて。
報われると思って。
でも――そんなことはない。
誰かの好意を信じて生きていてはいけない。
すべて自分の手でてきぱきとやり遂げる。
当てにされることはなく、当てにされる人もいない。
ただ仕事として片づけるだけ。
これまで、そうして生きてきた。
これからも、そう生きていくはず。
だからこんな抱擁なんていらない。
マスターとしてきちんとしていれば。
魔術師としてきちんとしていけば。
それでいい。
もうそれだけでいい。
なのに男の抱擁は心地よかった。
厚い胸板と太い腕の中にすっぽりと収まると、あんなにざわめき暴れていた心が穏やかになる。
どうしてか、わからない。
どうしてだか、わからない。
とうしてか、わかってはいけない。
狂おしいほどに募る想いが胸をこみ上げてくる。
なのにそれはあくまで穏やかで――あまりにも穏やか過ぎてバゼットには信じられなかった。
ランサーはすこし照れたような顔すると、抱いた女に囁きはじめる。
「好きだ」
甘い言葉にバゼットの体は震えた。
「好きだ。好きだ。好きだ」
繰り返す甘い囁きに心まで震えた。
「……嘘です」
バゼットはそう言うのが精一杯だった。
けれどもランサーは繰り返す。
「好きだ」
「嘘です」
「好きだ」
「……嘘です」
「好きだ」
「…………嘘です」
「好きだ」
「…………嘘、です……」
「好きだ」
「…………………………」
「好きだ」
ランサーはただ愛おしそうにバゼットを見つめて繰り返す。
バゼットは抱きしめられているのが心地よかった。
こんなにも安らかで、胸の中が温かくなる。
今まであんなにどろどろに渦巻いていた情念も思考も何もかもが静まり、穏やかだった。
こんなにも穏やかなのは、ひさしぶりだった。
「――バゼット、お前はどうしたい?」
静かな男の声に女の胸の奥が安らかになっていく。あまりに静かな声で優しく響いて聞こえた。
どうしたいのか、バゼットにはわからなかった。
あまりにも安らかで、あまりにも静まってしまったため、何をしたいのか思いつかなかった。
ただこうしているだけでよかった。
ただこうしているだけで幸せだった。
こうしてランサーの胸の中にいられるだけで良かった。
こうしていたい。
ずっとこのまま。
時が流れても。
ランサーと居たい。
涙がバゼットの瞳から零れた。真珠のような涙は頬を伝わり、泣き黒子を濡らしてしたたり落ちていく。
「……」
バゼットは唇を動かす。薄い唇が何かを求めるように蠢いて、言葉にならず空に消えた。
ランサーは無言のまま、たおやかな視線で女を見つめる。
バゼットの視線はただランサーに注がれたまま、バゼットの唇がその想いのままに動く。
「……好き……」
静かな声。言葉一つだけの告白。それをうち明けるだけで、バゼットの胸の奥から熱いものがあふれ出す。渦巻く想いは奔流となって、それが言葉になって紡がれていく。
「……私も……貴方のことが……好きです……」
止められなかった。言葉はただこぼれ、涙もこぼれ落ちた。
渦巻く狂おしいほどの切なさが、ただ涙となり、ただ言葉となり、溢れ、紡がれていく。
ランサーはその言葉に返答することもなく、泣き黒子の上に伝わり落ちる涙を拭うように口づける。
唇が触れられた頬が熱くなっていく。しかしそれは今さっきまでのどろどろとしたものではなく、安らぎをおぼえるような愛おしさが募ってくる。
じぃっと見つめられるランサーの視線に熱い視線を送り返してしまう。
バゼットは頭の片隅で、私はなんて莫迦だったんでしょう、と自分自身を罵った。
こんな簡単なのに、たった一言言うだけでよかったのに。
なんて――莫迦。
そう思うとつい笑ってしまう。
ランサーもつられて笑う。
「泣いた烏がもう笑った、だっけか?」
「ランサー、そういう侮辱はいただけません」
「そうか――じゃあ」
ランサーの顔が近づく。
バゼットは恥じらいに目元に朱を散らしながら、唇を差し出す。
やさしい口づけで、ほんの一秒もない。
それでもバゼットには充分だった。
でも目の前のランサーはにやけた笑みを浮かべていて、それがバゼットの気に障った。
「な、なんです。そんなヘンな笑みを浮かべて――」
「いや――」
ランサーは笑みを堪えながら、また顔を近づけてくると囁きかけた。
マスターではなくてよかった
と。
その言葉に驚き、驚愕で目をまん丸にさせるバゼット。
「なぁに、俺は自分の主とはそういうことはしない主義なんでな」
その言葉にしばし呆然とするバゼット。しかしその意味がわかると、顔が赤くなり、怒鳴りつけた。
「……じゃ……じゃあ、わ、私がマスター権を……カレンと争っていたのは……」
ランサーはイタズラ小僧のような笑みを浮かべ、お茶目な表情のまま愛嬌たっぷりにウィンクした。
男の余裕たっぷりの態度に、生真面目な女は怒りに打ち震える。
「こ、このぉ……」
ランサーの腕の中からするりと逃げ出す。
「……このぉ……死ねえぇっっ!! 」
宝具は用いることはなかったが、バゼットは今さっきのとは違って、怒りに駆られるまま思いっきり力まかせにランサーをぶん殴った。
顔面に右拳が突き刺さる。
顎を砕けんばかりと渾身の一撃。
さすがのランサーも一歩だけ退いた。
しかしその表情はいまだいたずら小僧めいた奔放無頼の戦士のまま。
「――気が済んだか?」
「まったく、貴方という人は!」
「まぁいいって――好きなんだろう」
「――っ!」
そういうとランサーは素早く手をバゼットに絡める。
腰に手を回し、かき抱くように引き寄せた。
「な、何をするつもりですか!?」
「何って――ナニだけど」
「……あ、あの……い、今のところはこういう口づけだけで……」
上目遣いにたどたどしく尋ねてくるバゼットに、ランサーは首をふる。
「なぁに、お互い大人なんだからちゃんとしようぜ」
そうして耳元に男の低い声で囁きかける。
契ろうぜ
「――っ! 貴方は恥じらいというものを覚えなさいっ」
その一言に真っ赤になって暴れるバゼットを抱きかかえたまま、ランサーは楽しそうに笑った。
「なぁに、俺が生きていた時は略奪婚が基本だからな」
「――――っ!」
なお暴れるバゼットを強引に引き寄せる。
「いいだろ?」
指示語も代名詞もない台詞なのにバゼットの顔はますます赤くなり、ここでは、とか、でもやっぱりとか、ぼそぼそと呟く。
そうして少してから、羞恥でその端正な顔を伏せたまま。
「……はい」
と一言だけの返答に対して、男は女をゆっくりと床に押し倒す行為で答えた。
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