■ Take A Bow ■
1
ふと見上げた空は暗く、高かった。
ちらちらと瞬く星を見て、一つ溜息を漏らす。あちらこちらに漂う濃密な気配に、肌が粟立っていくことを自覚した。具体化を待つ闇が、私の中身を疼かせる。
――四日目。
残る隙間は少ない。
明けない夜は無い。
ここから先は舞台裏だ。ライトは消え、カーテンも下りている。
決着をつけるなら、今夜ほど相応しい時間は無いだろう。厳しくて不器用な彼は、きっと全てを果たしてしまう。だから私も、約束を果たさなければならない。
視線を前に戻す。今はまだ、安全な時間帯になる。
なるべく足音を消して歩き出す。自分という存在をあからさまにして、静けさを壊したくはなかった。たとえ、教会の石畳がそれを許してくれなくても、そう努力することで何かが変わる気がした。
たとえばそれは、落ち着くためでもあり、緊張を保つためでもある。
柄にもなく震えている自分に苦笑した。身体が欠陥品なのは前からの話。だからこれは、怖がっている所為なんだろう。
けれど、そんなことは関係が無い。
彼は彼の在り方を貫くだろう。私も私の在り方を貫くのなら――行かなければならない。それだけの話だ。
目を瞑ると、まざまざと思い出される。目蓋の裏には、彼と交わした約束がある。震えは自然と止まった。
きっとそれには、意味があるのだ。
/
掠れた瞳は、真っ先に天井を捉えた。まだ見慣れていない格子が、自分に居場所を教えてくれる。自分は上を向いたまま眠り、そのまま動かなかったのだな、とどうでも良いことに気付いた。
身体が眠りから醒め切っていない。温かくて、また眠ってしまいそうになる。世話になると決まってから数日目の、衛宮邸での朝だ。
最初は慣れている洋室を希望したのだが、空いていないということで、私には和室が宛がわれていた。若干不満が無いでもないが、使ってみると、和室というものも案外気安くて良かったりする。なんだか新鮮な感覚だった。
――思えば、彼はその『新鮮な感覚』とやらを求め続けたのだったか。
息を詰めて、かぶりを振った。醒めて数分でやってきた鬱に、巧く対処出来ないでいる。どうも最近、精神的に無防備でよろしくない。
寝起きの布団の中は、気持ち良すぎるからだろうか。この緩い温かさは、とろとろと私を溶かしてしまう。かつては朝から色々とやるべき仕事があったが、ここでは自分一人で全てやらなくてもいい、というのがあるからかもしれない。
堕落したものである。日々の勤めがこんな調子では、いざ教会の改築が終わった時に困ってしまいそうだ。カレン・オルテンシアの本来の居場所はあそこであって、この家ではないのだから。
さて、そうとあっては、そろそろ起きなければ。
名残惜しさを引き剥がすように、畳に這い出る。抜け殻をちゃんと畳んで、押し入れに仕舞いこんだ。それだけの作業で痛む節々を厭わしく思いつつ、次は寝巻きを脱ぎ捨てる。やたらと生白い肌と、端々の赤くなった包帯が、視界に飛び込んでくる。一切の包帯を取り去って、枕元の箱から新しいものを取り出した。
自然と顔が顰められる。裸になると少し寒い。
かさぶたを撫でたりしながら、いつものように包帯を巻きつけていく。ブラを経験してみたいのだが、胸が膨らんだ頃には生傷が絶えなくなっていた。洗濯物が増えるのと、包帯がさらし代わりになってしまうのとで、結局それは叶っていない。
傷が塞がったら、買いに行くのもいいかもしれない。そんなことを思う。どうせ暫くはこの街にいるのだし、ここにはもう、悪魔はいないのだし。
――リセット。
息を吸い込んで、止める。息苦しさを動くための力に変える。
とにかく、着替えてしまおう。身体は強くないのだし、このままでは風邪を引く。修道着に腕を通し、いつもの自分に照準を合わせた。シスターという立場を思い出すとでもいうのか、服装を変えるだけで心持ちはだいぶ違う。
ほつれた自分を繕えたなら、後は居間へと移ればいい。部屋を出て、軋む廊下を歩いていく。やがてテレビのニュースや談笑する声、油の跳ねる音が耳に届くようになる。
障子を開けると、もう数人が朝食を待っている段階だった。
「おはようございます」
居並ぶ面々に声をかける。台所には士郎と桜の二人が、居間にはセイバーとライダーがいた。凛とバゼットはまだ眠っていて、大河が来るには少し早い、といった所か。各々の挨拶に会釈で返し、私も座布団に腰を下ろす。
テレビのニュースからは、地方の特産物に関しての特集が流れていた。ありがちと言えばありがちなのかもしれないが、知らないものも多いので、それなりに楽しめはする。
どこかの漁港の風景を、ぼんやりと眺める。採れたての魚介類が網から勢い良く溢れ出たのを見て、
「あれは壮観ですね……」
と、セイバーが小さく感嘆する。このまま行けば何がねだられるか解ったものではないが、振り向けば、家主は何も知らずに人参を刻んでいた。つとめて無表情のまま目を戻す。ライダーも士郎を見ていたらしく、途中で視線が絡んだ。
肩を竦めて場をスルー。まだテンションは低く、悪戯につっつく気にもならない。微妙な空気が流れる。
「む、どうかしましたか」
「いえ、何も」
ライダーも流石に対処が解っている。話は引き伸ばされなかった。
ほどなくして、バゼットと凛が起きて来る。バゼットは朝からスーツ、凛は制服という出で立ちだった。ただ、バゼットの背筋が通っているのとは対照的に、凛は半分死んだように揺れている。彼女らとも挨拶を交わした所で、丁度良く料理が仕上がった。
士郎と桜も居間に集まり、食事が配られる。
「あれ、藤ねえはまだか?」
「昨日の夜に、見たいテレビがどうとか言ってた気がしますけど……ちょっと行って来ましょうか?」
「……ってことは、まだ寝てるな。取り敢えず桜はこっちを頼む。俺が行ってくるよ」
慌しく士郎が席を立つ。それを見送ってから、各々が食事を手にとる。平日の朝だ、セイバーや私はともかく、他の面子の時間は限られている。
「藤村先生も相変わらずねえ」
「もうすぐ走ってくるでしょう。いつものことです」
凛の溜息に、こちらも呆れた調子でセイバーが返す。穏やかな、ありふれた光景。それを眺めながら、バゼットは相変わらずの速さで食事をたいらげていく。
「味わうという気がまるで無いのね」
「何か文句でも?」
「いいえ。ただ、よく噛んだ方がいいらしいわ」
暫くバゼットは私を見つめていたが、それもそうかと頷いて、僅かにペースを落とした。別に仲が良い訳ではないが、客観的に正しいことを飲み込めないほど、バゼットは性急な人間ではない。
箸を止める。
焼き魚に醤油をかけながら、そんな忠告を加えるなんてらしくない、と自覚した。そして、考え事の所為で味付けに失敗する。
「……何してんのアンタ」
「失敗しました。大根おろしをくれませんか」
もうこうなったら薄めるしかない。凛から大根おろしを分けてもらい、どうにか食べられるレベルにまで落ち着ける。それをご飯に混ぜて、更に誤魔化した。
ダメだ。本当に――らしくない。
そんな私を、バゼットは訝るような気配で見つめている。
「調子でも悪いのですか、貴女らしくもない」
「まだ体が寝ているのかもしれません」
計るような視線。しかし、それはすぐに外される。廊下から慌しい足音が、二人分響いてきたからだ。
「ご飯まだある!?」
枠が壊れそうな勢いで、障子が左右に割れる。そこには推察通り、焦った顔をした大河と、疲れた顔の士郎が並んでいた。
「心配しなくても、誰も取らないって。ほら、さっさと食べてくれよ。また遅刻するから」
「桜ちゃんご飯ご飯ー!」
「解ってますよ、はいどうぞ」
座ると同時に食事が差し出される。こういうことを阿吽の呼吸、と呼ぶのだろうか。周囲に呆れ顔が広がっていくが、大河はそれも気にせず箸を動かしにかかった。さっき注意したバゼットの二倍は速い。
あそこまでやられると、逆に見蕩れてしまう。
「どうしたのカレンさん、早く食べないと取られちゃうよー? 遅刻しちゃうよー?」
「いえ、別に遅刻などはありませんが」
教会は改築中なので、今は休業中だ。生活費については振込みがされているので、特に問題も無い。ある意味自由な生活である。
遣り取りを見て、凛が眉を顰めた。
「改築ってまだ終わらないの?」
「相当荒れていましたからね、当分かかるでしょう。どんな具合か見に行こうとは思っていますが」
たまには顔を出さないと、どう改築されるか解ったものではない。個人的に、あの教会の内装には拘りがあるのだ。
「ん、ってことは、午前中には出るのか?」
「そうしようかと」
「じゃあ、外に出る場合は鍵頼むな、セイバー」
「解りました」
平日なのだし、やることは元々決まっていたようなものだ。ある程度の段取りがまとまると、また各々の食事が減っていく。私もご飯と魚を口に運んでいく。
目の前にあるのはありふれた光景で、胸を動かす要素は特に無い。日常が刺激的である必要も特に無い。そういうものは、忘れた頃にやって来てくれないと、カンフル剤にはならないものだから。
彼ならどう考えただろう。私と同じなのだろうか。
「――士郎」
肺の中の溜息を誤魔化したくて、同じ顔の人にお茶を頼んだ。
2
ビルの屋上に立つと、空が身近になった気がした。そして、遠く視線の先には黒い孔が開いている。あれこそが、彼の目指すゴールだ。
ここに辿り着いて、もう三十分が経っている。だが、まだ彼は来ていない。
風に髪の毛を遊ばせながら、ぼんやりと待つ。来るのは解っているから、待つのはそう苦ではなかった。報われることがはっきりしているなら、一人の時間も一興だろう。
「ん……」
――肌の内側がどくんと脈打つ。彼方に赤い光点が見えた気がした。危険な時間帯になってきているようだ。
ここからは随分と距離があるし、そこまで心配は要らないにせよ、何となく焦りはする。
何事もなく、辿り着いてくれればいいのだけど。
意識していなかったが、手は自然と組まれ、祈りの形を作る。信仰というよりは、単に癖というだけなのかもしれない。それでも、常を自分の元に引き寄せられれば、安定のきっかけにはなってくれる。
そのままでしばし息を潜める。肌の内側を撫でられるような感覚が、じりじりと強くなっていく。唇が緩んでいると気付き、引き締める。
背後で物音。
「――――――驚いた」
ドアの前に人影が一つ。教会とは違って、周囲に溶け込んで見える。
待ち焦がれたその姿に、体が熱くなる。
「ここまで来るなんて、サービス過剰なんじゃないか?」
が、その発言で頭だけが綺麗に冷えた。まあ、巧く落ち着いた、とも言えるかもしれないけれど。
「……過剰ではありません。四日目の夜に貴方と出会うのは、私の習慣のようなものですから」
「……そういやそうだったけど。じゃあ、今夜は何の用件で来たんだよ」
「貴方のエスコートをしに参りました。何処まで行けるか分かりませんが、可能なかぎりご一緒しようかと」
導くという約束は、果たさなければいけないと思ったから。
もしかして、困っているかもしれないと思ったから。
それ以上のことは、取り敢えず考えていないことにした。彼は答えに目を丸くしている。その顔はなんだか新鮮だった。
彼の肩が持ち上がり、ゆっくりと表情が崩れていく。
「―――、は」
唇を吊り上げた、大仰なアクションが返る。私は自分の役目を果たしていいのか、その許可が下りるのかを案じる。
「やっぱりサービスしすぎだよアンタ。そこまでする義理はないと思うんだけど」
「迷惑ですか?」
少し不安になる。自分一人でやる、と強弁されてしまったら、私にはもうどうしようもないから。
けれど、彼は勢い良く首を横に振った。
「逆。ありがたくって泣けてきた。見栄を張る相手がいなくてヤバくってさ。誰でもいいから隣にいてくれると助かる。
いや、地獄に仏ってのはいるんだな」
返答は、正直な所かなり沁みた。
そして彼は静かに足を進める。その先には、行くべき道が伸びている。
「なあ。高い所は苦手か?」
「怖くはありません。私は一度、あの月から落ちてきましたから」
「よし。なら、ちょっとそこまで付き合ってよ。俺一人じゃ足を踏み外しそうだ」
何気ない仕草で、手が差し伸べられる。私はそれをじっと見つめた。
いつか私に触れた指。
これから私が触れる指。
共に歩むために、その手に触れたいと願う。でも、共に歩むことは、終わるということでもある。なんて皮肉な話。
――それでも、私は。
「……言われるまでもなく。
私は貴方を導く為に、こうして出逢ったのですから」
手を繋ぎ、指を重ね合う。体温が肌に滲んでいく。繋がっているという温かさ。
並んで階段へと踏み出す。
この感覚があれば、私たちが道を踏み外すことは、きっとないだろう。
/
教会の中に入ると、作業員の方々が椅子の設置にかかっている最中だった。三人ほどいる男性の中の一人が、私に気付いて頭を下げる。それで誰もが振り返った。
「こんにちは」
「ああ、どうもシスター」
挨拶もそこそこに、作業の具合を確かめる。前方の座席は設置が終わっているようだったので、どんな感じになっているかが気になった。
だが、踏み出してすぐ、足元の工具に爪先を引っ掛けられてしまった。よろめいている内に、最初の一人が私の所へと駆け寄ってくる。
「大丈夫ですか? ちょっと今散らかってるんで、気をつけてください」
「ええ。……作業の方は順調ですか?」
改めて全体を見渡す。最初ここに来たときは、内装のあちこちがボロボロになっていた。今はある程度まともになっているが、細かく見ていけば、取り繕えていない場所もたくさん残っている。
専門家ではないので、進展があまり掴めなかった。
「まあ今のところ順調ですね。ただ……」
「ただ?」
「幾つか材質が変わる場所も、やっぱり出てきちゃいそうですね。だいぶ古い建物なんで、石綿とか……ああ、アスベストって言えば解りますかね」
巧く思い出せないが、最近ニュースで見たような気がする。体に悪い材質なのだったか。
「一応は解ります。それが?」
「大雑把に説明しますと、この頃そのアスベストってヤツが問題になってましてね。壁の中は取り敢えず変えなきゃならんかな、と」
少し思案する。予算は別に私が持つ訳ではないから構わないのだが、報告の義務はある。後で本国に送るために、ある程度はまとめておく必要があるだろう。
「幾らぐらいになるか、すぐに出せますか?」
「まとめておけばいいですかね。ちょっと今手元に資料が無いんですが、急ぎなら明日にでも出しますけど」
「それでお願いします。中身は別に拘らないので、好きに変えてください」
長く使うことになる建物だし、私だけではなく、後任のためにもしっかりと建てておかなければならない。使えば使うほど体に悪いような住居は、住居として間違っている。ここを訪れる人たちだって、良い気はしないはずだ。
どれだけ高くつくかは知らないが、教会の支払い能力は低くはないのだし、環境はなるべくプラスになるように整えておこう。
「他には何かありますか?」
「ええと、後は……ああ、前任の神父さんの私物が残ってるみたいですけど、どうします? 壊れて使い物にならないものも、多いみたいですけど」
――不意な言葉に、息を飲む。
部屋は全部見たはずだし、物陰なども確かめた記憶がある。私なりにこの教会のことは調べたつもりだったが、まだ見落としがあったらしい。何処に隠されていたのだろう。
「見つかったものは何処に?」
「奥の方にまとめてありますんで、後で確かめてみてください」
なるべく表情を動かさないようにはしていたが、内心で酷く焦る。下手をすると、とても一般人には見せられないようなものが、大量に残っている可能性がある。
「どういったものがあったか、そちらでは確かめましたか?」
「そうですねえ……聖書がありましたけど。あと壊れたアイロンなんかも」
なるほど、今のところそんなに問題にはなっていないようだ。実際に問題が無いものしか残っていないのか、或いはあったとしても理解されていないか。どちらにせよ、何かを処分するなら今のうちなのだろう。
人目につくような時間は短い方がいい。こういう面倒なことは、早く済ませてしまうに限る。
軽く頭を下げた。相手が作業に戻ったことを確認して、奥の部屋へ。神経は過敏になっているようで、後からついて来ている人間がいないかは、振り返らずとも判断出来た。役に立つのか立たないのか、よく解らないスキル。
足は自然と早くなっていく。かつて誰かが通った廊下で、ろくに知らない男の足跡を辿る。そこに何があるのか、期待さえ湧いていないというのに。
私は何を考えている。強いて言うなら――今この胸にあるものを、感傷と呼ぶのか。
くっと喉を鳴らして、扉を押し開けた。
素っ気無い造りの部屋。その一角に、ちょっとした瓦礫の山が出来ている。重要性云々はまるで感じられず、まとめて出そうと思った粗大ゴミを出せなかった、という程度の印象しか感じられない。
近寄って一つ一つを見る。アイロンは一番上にあって、コードの部分がほつれていた。他にも錆びたナイフなどが転がっている。魔力の残滓すら無い、本当にただのゴミ。強いて言えば書籍の類は読めるので、それは保存しておいてもいいか、という程度だ。
ここにあるのは、誰かの表の顔。
昔はその顔を知りたいと願った人の、残り火だ。
張り詰めていた神経が、一気に緩んでいく。予想していたほどのインパクトは無く、気付けば処理の仕方を考えていた。
恨んでいた訳でも慕っていた訳でもない。ただ、実績は評価していた。あの人は優秀な神父だった。きっとそれはそのまま、私にとってはその程度でしかない、ということだったんだろう。訣別というには、あまりにも思い入れに欠ける。
私の興味はもうそこには無い、と自覚した。
今の興味は夢の中にしか無い。彼に父性を求めていた訳ではないけれど。
そっと部屋から出て、扉を固く閉ざした。いい機会だし、あれらは全て処分してしまおう。残しておいても邪魔になるだけだ。
そして、元の場所に戻る。椅子の設置はさっきよりも進んでいた。私は当初の目的である、もう作業が終わっている部分の確認に入った。背もたれに手をかけ揺すり、座り心地が悪くないかを吟味していく。そう悪くはない。
半ば薄れている記憶と照らし合わせてみれば、若干装飾は変わってしまっている。だけど、この椅子ならば別にどう変わっていても構わない。
座ったまま体を捻り、作業員の方々の様子を窺う。あと二つラインが下がれば、譲れない場所に差し掛かる。発注した椅子の数は少なめにしてあるので、あの場所までは届かないだろう。
さっきの作業員が、私の所に首を傾げながら駆けてくる。
「すいません。このままだと後ろの方に結構スペース出来ちゃうんですけど、どうします?」
彼はメンバーとしては末端で、私の発注を正確に把握してはいないらしい。
「そのままにしておいてください。昔使われていた椅子を探しているのですが、まだ見つかっていないので」
「すると……前と後ろで椅子が変わりますけど、いいんですか?」
「それがいいんです。……ちょっと、個人的に拘りがありまして」
「なるほど。すいませんね、俺は教会のこととかよく解らないもんで」
別に教会の作法とは、何の関係もない。ただ、詳しく説明するほどのことでもないので、私は曖昧に頷いておいた。彼は気を悪くした様子もなく、また仕事にかかっていく。そのひたむきさは評価出来た。
作業をじっと見つめる。あと二つほど椅子を並べてしまえば、彼が座っていたあの場所に辿り着く。今よりも後ろに置く椅子は無いと知りながらも、そこを埋められてしまうのではないかと、内心で落ち着かなくなっている。
あそこだけは。
あそこだけは、元のままにして欲しい。
私がかつて目にしていたままの風景を、引き戻して欲しい――今回の改築で、らしくもない我侭を通したのはそこだけだった。それさえ叶えられるならば、壁の中に毒が詰まっていようが、本当はどうでも良かった。
どうせ私は長くない。それだったら、少しくらい優先順位をつけても許されるのではないか、と思ったのだ。
「……ん、あと椅子って無いよな?」
「ああ、昔のヤツを探してるから、まだ空けておくらしい」
「ふうん」
ほどなくして、作業員の方々の手が止まった。あの場所を乱されなかったことに安堵して、私はようやく席を立つ。
すぐに場を離れようとはしない。間延びしたスペースを眺めて、かつての会話を思い出す。彼は本来のキャラクターの上に張り付いた仮面でしかなかったが、あれはあれで強烈な人格になっていた。自分が無いとはよく言ったものだ、あの仮面はおよそ紳士的とは縁遠い存在だった。
かつて彼がいた場所を睨む。そこには影さえも無く、視線は空気を通って罅割れた壁にぶつかる。オルガンを弾きたい、と指が訴えかけた。誰もいなかったら、躊躇わなかっただろう。
溜息。思考に区切りをつけ、教会を出ることにする。作業員の方々に一礼し、ドアに手をかける。しかしそれは私が力を入れる前に、大きく開かれた。
逆光の中にがっしりとしたシルエットが浮かぶ。もう一人作業員が来たらしい。どうやら、似たようなタイミングで扉を開こうとしたようだ。
真昼間なのに、アルコールの匂いがした。
「おっと、失礼」
「いえ」
うっすらと笑う彼と入れ違うように、私は外へ向かう。耳元でげっぷの音がして、不意にお尻を鷲づかみにされる。
歩みを止める。少し眩暈がした。快も不快も無い。
かつての科白が思い返される。
――その男性が望むのなら、拒む事はありません。
感情は平らに。振り向いて尋ねた。
「したいのですか?」
自分でもぞっとするような声が出た。野卑な笑いが凍り付いて、相手は後ろへ一歩下がる。だから私は一歩詰めた。
「したいのですか?」
もう一度問うた。いつの間にか手はお尻から離れている。相手は何も答えなかった。お望みではないらしい。
顔を背ける。踵を返し、改めて外に出る。眩しすぎるほどの光が私を迎えた。
白い世界を眇めて見る。
日光が強くて良かった、それだけ影も濃くなるのだから。
足を速め、顔に手を当てる。
唇を引き攣らせて、私は笑っていた。
3
赤い灯がひしめいている。眼下に広がる光景は、ここにいるとまるで無関係なもののように見えた。時折微かに響く音が、私たちを、いや彼を確かに守っている。
だが、だからといってゆっくりはしていられない。時間は有限で、これを逃せば次にまた機会が巡るかは解らない。誰もがその気にならなければ、今日のこの日は越えられない。今が最善のタイミングかはわからないが、それでも最善を目指さなければ。
――腕の筋肉に、千切れるような痛みが走った。
彼の存在が曖昧になってきているのだろう。だが、繋いだ手は揺らぐこともなく、歩みが止まることもない。
「あー―――どこまで続くんだ、コレ」
思い出したような悪態。何か口にしていなければ、落ち着かないのかもしれない。思えば、いつだって沈黙を破るのは彼だった。根負けして先に折れる、或いはなんだかんだで人が良い、といったところ。
でも、声を出すと相手に何かが伝わるのだし、それで落ち着くというのは解る気がした。こういう時だからこそ、自分を見失う訳にはいかない。
先を行く背を追う。不意に、爆音で階段が震えた。下を確認する。
「―――見て。赤い光が止まっているわ」
科白につられて、彼も下を向く。赤い光点は要所要所で塞き止められて、なかなかこちらに進めずにいるようだった。
おぞましい夜景。少しだけロマンティックで、触れれば切れてしまうような。
彼はそれを、じっと眺めていた。
そして、振り切るように足を進めていく。
階段を登る。一歩一歩が、より高みへと私たちを押し上げていく。道は途切れずに、世界の果てまで続いている。
果て。遠いようで近い、昏い孔。
眉を顰めたのは、体の痛みからだけではない。
一秒を噛み締める。共有した時間は少なかったけれど、誰よりも私は彼を理解したと信じている。知れば知るほど、彼は私の中の深いところに根付いていった。
そして今、それも含めた全ては終わろうとしている。
誰もが――誰もが永遠を望んでいた。夢に似た優しい時間を求めていた。だからこそ、日々は輝いていただろう。
人間らしい行動。
ただの、人間らしい行動。
それでも、人として譲れないものはある。
「っ、―――、っ―――」
目の前で、彼の輪郭が歪んだ。いきなり強まった痛みに、歯を食い縛る。
これくらい、大したことではない。
「―――大丈夫。貴方は、我慢できる人でしょう」
強く指を握り締めた。体温が私たちを繋げ直す。
心配なんて要らない。疑いがよぎる余地は無い。
「……そうだな。終わる事と続かない事は違う。
ここにいたら、いつまでも続きがない」
その声に、私は確かに頷く。
そこに込められたものは、何よりも澄んだ祈りのようだった。
/
今日の夜は、晩餐としては珍しいことになった。特に理由はなく、流れでそうなったとしか言えないのだが、お酒が振舞われることになったのである。
教会ではワインなどが作られることもあるし、私は飲めなくはない。むしろ問題なのは、他の面々の方だった。いちいち目くじらを立てるつもりは無いけれど、お酒は慣れていないと限界を超えてしまう場合がある。酔って醜態を晒してくれるなら嬉々として待つのだが、倒れられても面倒になるからだ。
まあ、以前凛と話したところによると、大体の人は強いようなので、そう心配することもないのかもしれない。
――と、思っていたのだが。
「凄まじいことになりましたね……」
目の前の光景を呆然と眺める。
確かに大抵の人間はアルコールに強かったが、それ以外が大変なことになっていた。大河は際限なく呑んで、暴れ回っている。アルコール初体験のバゼットは、隅っこに座ってだらだらと杯を啜っている。他の面子は酷く酔っている訳ではないが、かといってまるで素面ということもなく、場のテンションも相俟って誰も周りを止めなくなっている。
約一名を除けば、大騒ぎというほどでもない。割と節度は守られているように思う。でも、つつけば壊れてしまうような、相当危うい均衡を保っているだけなのではないか。事実、空になった酒瓶はもう数え切れない。
私はスタートダッシュに失敗したので、傍観者の位置をキープしている。そして、本来ならこういう時に止める役回りである士郎は、周りを抑えるのに躍起になった所為で、逆にあっさり潰れてしまった。ウィスキーのツーフィンガーは、ちょっときつすぎたらしい。
まあ明日は休みなのだし、多少の二日酔いなら気にせずともいい。けれど、起きたら誰も動けない、というのは流石に拙い。そうなると、動ける私が動いておく必要が出る。
頭の中で段取りを決める。とにかく、一度仕切り直そう。
少し体が重かったものの、どうにか腰を上げる。そんなに呑んでいないつもりだったが、頭がくらくらした。
「ふう……士郎を、布団につれていきます」
「む――もう、寝るんですか」
「戻ってくるかもしれませんが、まずは彼をどうにかします」
かなり酔いが回っているのだろう、バゼットはうつらうつらとしながら、私の挙動に反応した。普段取り澄ましている彼女が、こんな態度を取るのは非常に面白い。でも、いつまでもそれを面白がっていると、ここから抜け出せなくなりそうだった。
取り敢えず運んでしまえるよう、畳の上に転がっている士郎の下に、腕を差し込む。私の力では厳しいのだが、バゼットがふらつきながらも助けてくれたので、何とか背負うことが出来た。
「お見事」
気の無い拍手で、バゼットが私を称える。何でもいいけれど、グラスの中身が飛び散っているのはどうにかしてほしい。飛沫が顔にかかって冷たかったので、ボトルごとウィスキーを渡してやった。彼女は一礼してそれを受け取り、また飲みにかかる。味が解っていないということは、感覚の新鮮さに惹かれるのだろうか。
明日の朝はどうなっているだろう。
さておき、酒宴の邪魔をしないように、よろめきながら隅を歩いて縁側へ向かう。ライダーと桜が物言いたげだったが、私の方に構う余裕は無かった。
障子を開き、外の空気を浴びる。夜風は涼しく、目が冴えるようだ。反面、ぴったりと触れ合っている背中は、汗をかくほど蒸し暑い。お互い、まだアルコールが抜けていないからだろう。
熱気に当てられすぎたのかもしれない。呑むことそのものには耐性があるつもりだが、度数が高いと流石についていけなくなる。控えめの控えめ、くらいが丁度良いラインだったのだろう。
まあ、背中で寝息を立てている人のようにはならなかったのだし、それで充分か。
「ん――っと」
士郎を落としそうだったので、頑張って負ぶい直す。落とした所で平気そうだけれど、わざと捨てる訳にもいかない。どうせ、もう少しなのだから。
重い足を引き摺って、ようやく部屋に辿り着く。はしたないが、障子は足で無理矢理開けた。
「あら?」
少し意外なものが、目に飛び込んでくる。布団が畳まれておらず、そのまま残っていた。士郎は色々とこまめな人間なので、この不精さは珍しい。まあ恐らく、昨日の夜に桜辺りが気を遣って敷いておいたものの、士郎は土蔵で寝てしまい、布団に気付かないままだった、という所か。
何にせよ、わざわざ布団を敷かなくても良いのはありがたい。一度士郎を下ろして、布団を引っ張り出して、また士郎を……といった作業は、この状態では大変になる。たとえ昨日使われていたとしても、一日くらいどうということもないだろう。
布団を捲り上げ、その中に士郎を寝かせようとしゃがみ込んだ。しかし、丁寧にやろうとしたつもりが、体重に負けて一緒に倒れこんでしまう。背中から抱きしめられたまま、二人並んで横になった。
身じろぎもせず、外を眺めるような格好。
頭の奥で、拙い、という言葉が過ぎった。体がだるい時の布団、これは危ない場所だ。何もする気が起きなくなってしまう。冷えかけた体が、また温かくなってしまう辺りもよろしくない。
意識してしまった所為だろうか。今まで一人分の体重を支えていたこともあって、一気に体は緊張感を失っていった。眠いとまではいかないが、布団から抜ける気になれない。そんなに酔ってはいないはずなのに。
気持ちがふわふわと落ち着かない。地に足がついていない感覚。無防備になっていると自覚した。
今朝方のことを思い出す。やっぱり堕落している。
昔では考えられなかったような、とんでもない醜態だ。でも、体を奮い立たせるきっかけが、何処にも見つけられずにいる。もう日は落ちているのだし、今日の勤めは果たしているのだから、眠ったところで咎められるものでもない。
ああ、問題はそこではないのに。私を緩ませているものは、一体何なのか。
お酒か、疲れか。頭がぼんやりしている。気力はすっかり無くなっていた。
「ん、く……」
後ろでもぞもぞと、体が揺れている。酒気を帯びた吐息が、耳たぶにかかった。ぞくりとする感覚が背中を抜けていく。
何となく呼吸を抑えた。起こしても構わない、というくらいの勢いで向き直る。
彼は、気難しそうな顔で眠っていた。呼吸がたまに苦しそうなのは、まだ限度を超えたところにいるからだろう。多くの日本人はアルコールを分解しにくい体質らしいので、その辺は仕方が無いことだ。
ただ、その油断しきった眠りは、やけに幸せなものに見える。幸せなものに見えるから、――腹立たしい気もする。
かき乱してやりたくなった。
寝返りをうった所為で絡んでいる髪の毛を、軽く振り払う。それから、士郎の腕を枕にする。誰かに見られたら悲鳴を上げられそうな状態。
「士郎?」
一応確かめるべく、声をかけてみる。反応はなかった。
彼の頬へと手を伸ばす。悪癖が私を後押ししている。したいと思うことをそのまま実行出来る環境に、胸を躍らせている。その反面――この近さに苛々を覚えている。
楽しいのに、不愉快。この複雑な感情を、読み切ってはいけない気がした。けれど、頭も体も止めることが出来ないでいる。
口付け出来そうな距離で、士郎の頬に触れる。そっと撫でると、少しかさついた手触りが伝わってくる。思うままに手を動かしているのだが、振り払われたりはしなかった。
ふと、頭が夢の中身を再生する。この現実とは噛み合わない。あったはずの事実は、無かったことになっている事実だ。たとえ私にとっては二度目でも、こんな間近で彼の顔を見るのは、初めてということになるのか。彼と過ごした、あの、短すぎた時間。強烈すぎるくらいの実感さえ、醒めてしまえば終わりに過ぎないのか。
油断しきった寝顔は腹が立つ。遥か高みにまで積み上げた玩具を、つついて崩したくなるような衝動。我慢し続けたことに、手を出してしまう瞬間を夢想する。
私は汚い人間だ。私はさもしい人間だ。
でも、それがどうした。
与えることが勤めであっても、奪いたくなることだってある。
目の前でよく似た人間が寝ている。代用品でも欲しくなる。間違っていると理性は言う。
――正しくなければいけないのか?
当然それはそうなのだろう。でもそんなまともなことに従うには、今の私は足りなさ過ぎる。聖職者である自分と、個人である自分を秤にかけてしまっている。そんな教えは受けていない。
ああ、ああ。
苦しい。
こんなに近くにいても、体が痛まないなんて。それだけで、弾けてしまう。
頬を撫でる。瞼に指を当て、睫毛を払った。もどかしげに、士郎が顔を歪める。見られたかもしれない表情、でも見られなかった表情。当たり前だ、仮面と素顔は別のものなのだから。
だったら何故私は拘っている。
ここにいて彼を感じている喜びと、別人だと理解している苛立ちが、ごちゃごちゃに混ざっていく。お腹の中で黒いものが渦を巻いている。だからこんな感情を読み切りたくはなかったのに。
頭の中は更に一歩進んで、教会前での処刑を思い出している。ぼやけていく彼の輪郭と、耳障りな声の大合唱。あの不快感の中で、私は自分を慰めていた。失われていく様を見ることで、私は嘔吐するほどに昂ぶっていた。
奪われなければ感じられない。それでも奪われたくはなかった。
「く――うう、あ」
呻き声を抑える。あの時と似た体感。
歯を食い縛り、吐き気を堪えるうちに、体は熱を帯びている。
私はこんな所で何をしている。
こんな所で、何を!
頬に当てていた手は、いつしか自分へと宛がわれていた。
4
ゴールは目前に迫っている。
次第に余裕は削られていき、最初は小さかった孔も大きく見えるようになってくる。その道程の中、私は彼に、どうしても気になっていたことを問うてみようと思った。
「……ねえ。何の為に、この願いを終わらせるの?」
言葉はなかった。でも、確かに流れ込んでくるものがある。
肉体が変わるほどに彼に近づいた私だ、その感情は把握出来た。ともすればすり抜けていきそうな曖昧なモノでも、今ならば読み取れる気がした。
意識を集中する。痛みは強くなり、境目は溶け合っていく。普段ならばやらないこと。でもこの時間に限り、負担を負担として捉えないでおく。
私が彼になっていく。
心中で改めて問う。何故?
そして応答が成立し始める。完全にはなりきれないから、情報は断片的になる。それでも、想いは充分に伝わってきた。
理由は―――もう思い出せない。
ただ、一番やりたかったコトは今も明確に覚えている。
この道の終わり。
黒い繭で、頑なに聖杯を守る女を解放するのだ。
「彼女は貴方を殺そうとしているのに? どうして貴方は彼女にこだわるのです」
どうしても何もない。
女を抱いたのは怒りと欲情から。
彼女に構うのは、憧れと愛情からだ。
「―――意外ね。貴方は人間嫌いだと思っていたわ」
勿論嫌いだ。およそ多くの人間が同胞を憂いるように、オレは連中を憎み続ける。
ノイズ。頭痛に顔を顰めた。
分割思考など修めていないため、二人分の思考に潰されそうになる。ただでも体は変性しかけていて、肌は張り詰めて破けてしまいそう。しかし懸命に、彼の意識を追い続ける。あるがままの、剥き出しの彼を抱き止める。独白が続いていく。
醜悪な個人、醜悪な社会、醜悪な概念。
言い逃れはできない。同胞からして同胞を悪と見なせる生き物は、そも在り方を間違えている。
ああ、けれど―――
「―――それでも、命には価値がある。
悪を成す生き物でも。人間に価値がなくても、今まで積み上げてきた歴史には意味がある。
いつまでも間違えたままでも―――その手で何かが出来る以上、必ず、救えるものがあるだろう」
そうして、ようやく漏れた肉声に笑みをこぼした。
繋がれた手。前を見据える真っ直ぐな視線。あらゆるものと戦って、戦って、懸命に自分を貫こうとするその姿。
「前から思っていたけど」
ん、と彼が振り返る。
「貴方、ロックスターみたい」
そっと滑り込ませた言葉に、彼の目が見開かれる。私の心臓までもが温かく跳ねた。
手を伸ばせば、本物にまで手が届きそうな位置で。私は地上の星と触れ合っているのだ。
暫く見詰め合う。黒い孔を背景に、決して馴染まずに浮き出た彼の姿。
――ああ、ソラが近い。
短すぎる終わりへの旅。混ざりすぎた感情は、言葉に出来ないのだと知った。
だから私は、締めくくりに相応しい言葉は何だろうと考えている。
/
背徳感が体の中を突き抜けていく。その感覚に押されながら、指先を口の中へと持っていく。舌の上を引っ掻き回して、唾液をたっぷりと絡めた。
ぬるぬるとした感触、捏ね回すと糸を引く。指の動きに滞りは無い。
眠っている士郎の唇に指を宛がい、そのまま歯をなぞる。私と彼の唾液が混ざり合ったものが、枕へと垂れ落ちる。強く力を入れれば裂けてしまいそうな、裏側の薄い皮膚を爪で擦りあげる。
当たり前の話ではあるが、相手はみっともない顔になる。取り澄ました顔、正義を謳う顔、そんなものを取り払った所にある素の表情。その様に頬を緩ませる。
「ん、ぁ」
鼻腔から熱っぽい呼吸が漏れていく。こうして唇に触れ、表情の歪みを見ているだけで蕩けそうになる。触らずとも包帯に染み入りそうなほど、脚の間がふやけていく気がした。膝を合わせて、濡れているかを確かめてしまう。
まだ充分ではない。
スカートを捲り上げ、膝の上までを露わにする。火照ったままの体には丁度良い具合。そして士郎の腕を取り、太股の辺りに滑り込ませた。呼吸に合わせて、手は少し揺れている。そのもどかしさが、じわじわと私をかき乱す。
何かの拍子で、勝手に手が奥へ行かないかと期待する。想像するだけで呼吸が止まる。本当は寝ていなかったりしたら。突然目を醒ましたら。
密やかな場所から蜜が溢れる。
汚らしい自分の行為に感じている。
士郎の脚の間に、自分の脚を割り込ませる。ジーンズの生地は硬くて素っ気無いが、それでも温もりがあった。昔――あれは現実ではなかったらしい――出会った男を思い出す。目の前に同じ顔。貫かれたとき、私に彼の顔は見えていただろうか。
恨めしくなる。額と額をこつんとぶつけた。
「ん……」
寝息が間近でかかった。まとわりつくような酒精の匂いに、陶然となる。相手の呼吸だとはっきり解るから。
でも、誰を相手にしているのかは曖昧になる。
「あ――ふぁ……っ」
太股に置いた士郎の指が、いきなり痙攣した。身悶えた拍子に、挟まれるようにしていた膝を滑らせてしまう。ジーンズの縫い目をなぞるような形で、少し膨らんだ行き止まりに近づいた。膨らんでいるのは体を曲げているからなのか、下半身の血流の都合なのかは知らない。どっちにしたって、同じことになるんだろうと思った。
視線が固定されてしまう。もう少し膝を上げれば、敏感な部分に届く。恐る恐る腿をスライドさせて、そこに忍び寄る。
自分の体が張り詰めていくのが解る。包帯を押し上げるほどに、乳首が硬く尖っている。服の裏地と先端が擦れ合って、反射的に背を丸めた。それでまた指先が肌の上を走り、ぞくりとした快感が抜けていく。
唇を噛んで、声が漏れるのを懸命に我慢した。いつだったか彼に、一人で盛り上がっているんだろう、と指摘されたことを思い出す。貞淑ではない自覚はある、だからこそ、昂ぶりを抑えられない。周囲に望まれる生き方をしようとしたけれど、その形は二極化されていた。
貞淑であることと、求められたら拒否しないということは矛盾する。私は後者を選んだ。
必要とされたかったから。
この体が持つ機能に、意味があると信じたかったから。
受動的な生き方。今、私は周りに流されている……のだろうか。
「は――ぁあ、あ」
尖った乳首を服の上からつまむ。大きく口を開いて、酸素をいっぱいに吸い込んだ。心なしか大胆になる。枕にしている腕に、頬を強く押し付けた。筋肉の中を通る血流が、低い音を鼓膜へと伝える。
思い切りがつく。膝と股間の距離を縮めた。布地の感触を確かめるように、すりすりと上下させていく。膨らんだ肉の弾力は感じられないけれど、もう一歩踏み込めばそれに届くというだけで、充分過ぎるくらいに感じてしまう。
自分の脚の間に指先を忍ばせる。スカートの中は湿った空気で満ちていて、肌には汗が浮いている。そのもっと奥がどうなっているかは、まだ確かめないでおいた。ただ、触り慣れた自分の秘所の近くを、しつこく撫で続ける。
背筋がぞくぞくする。腰の辺りが痺れている。触れ合っている場所は熱を持って、強くしてほしいと訴えている。呆気なく激しくしてしまいそうで、その欲求を懸命に抑え付ける。まるで、美味しいものを取っておくように。
ゆっくりと段階を踏んでいく。なるべく力をかけないようにして、士郎の手をずらす。太股の辺りにあった指先は、笑いたくなるような気持ち良さを描いて、脚の付け根に寄っていく。そんなに敏感ではない脚の外側をなぞられているだけで、尿意にも似たものが体を抜けていった。
我慢すればするほど昂ぶる。我慢するのを止めたら、どうなってしまうだろう。ここで好きにしたらどうなるだろう。頭の中であれこれと考えを巡らせると、得られる快感がどんどん膨らんでいく気がした。その予想図に股を濡らす。
脚がぬるぬるして、巧く合わせられない。
「んっ、はぁ……」
「んん……」
緩やかに瞼が震える。目覚めの予兆にも見える仕草。腕を伝って顔を動かし、吸い込まれるようにその瞼に口付けた。触れるだけのキスで、顔を視界から隠してしまう。薄皮の下で眼球が転がる様が解る。
別にこんなことをする必要は無い。私は一体何をしている。
何度目かの自問。もう答えは出ているはず。
けれど、知らないフリをした。
士郎の指先が惑いながら私の肌を掻く。そのリズムに合わせて全身を痙攣させる。宛がったままの唇は瞼をこじ開け、ともすれば起こすような形になってしまう。でも、起きたところで構わないと思っている。
膝が強く挟み込まれる。反射的なものだろうか。解らないが、その強さに応えて膝を揺する。血液が集まって膨らんだペニスの感触が、確かなものになる。ぴくん、と士郎の体が跳ねた。
顎に鼻息が当たっている。荒く早くなっている。お応えするように膝を躍らせてやると、面白いように息が首をくすぐった。肌が粟立つ感覚に、喉を仰け反らせて悦ぶ。途切れ途切れの呼吸は、いつもなら組み敷かれた果てに聞くもの。でも、今日は逆。
それが良いことだなんて思わないけれど、我慢は体に良くないという話もあって、じゃあどっちでも構わないのだろうか。睫毛を舐めながらそんなことを考える。瞼がぴくぴくと痙攣している。かつて私を見透かした目が、薄皮の下で暴れている。
それはまるで、寝たフリだと気付かれないように、懸命に目を瞑っているみたいで、
――起きているんですね。
薄く笑った。狂いそうなほどに嬉しくて、涙が出そうになった。だって、士郎は私を咎めるつもりが無い。嫌なら私を跳ねのけてしまえばいいのに、必死になって寝たフリを続けようとしている。
それは、もう遠慮する必要は無いということ。あとはお気に召すままに。
「っ、く、ふふ」
ついには声が出る。
睫毛のところで遊んでいた舌先を、より前に突き出した。瞼をめくり、眼球を唾液で湿らせる。涙をかき出すみたいにして、執拗に内側を舐め回す。こうされたことが無いのだろう、士郎は小刻みに体を震わせていた。心配しなくても、黒目の辺りは舐められたって痛むことは無いのに。
貴方のあそこは、こんなにも充血しているのに。
宛がった膝を弾くように、士郎のペニスが私を押し返し始める。その弾力に負けないくらいの力で、私も押し返してやる。そのくせそこからふっと力を緩めて、相手に任せたりもする。窮屈なジーンズの中で、ペニスが前後しているのが解った。バランスを取ろうとする秤の針に似ている。
「ぁ、くぅ……っ」
士郎も声を漏らし始める。こんなに弱々しい彼の声を聞くのは初めてだ。しかも間近でとなると、背筋を抜けていく痺れはもう言葉に出来ないほど。自然と腰がくねり、相手からの接触を求めた。
指先が僅かに腰を滑る。今までは爪が当たるようだった愛撫が、妙に丁寧なものになっていた。傷つけないようにと、気を配っているのだろうか。
私が。誰かを求めるなんて。
笑いが止まらない。士郎は寝ていることになっているから、私から踏み出さないと話が進まない。彼の手を取り、ショーツの中に入れてしまう。けれど、潤った場所に導く真似はしなかった。あくまでも手は腰の辺りに。小指がお尻にかかるかどうか、というくらいがもどかしくていい。
何かの拍子に彼から動くようなら……それもそれでいいと思う。どうだっていい。満たされればいい。満たされたい。
唾液で糸を引きながら、顔を離した。障子は開け放したままなので、月明かりで瞼がてらてらとぬめっている。そぐわないマスカラをつけているみたいに見える。マスカラだろうと口紅だろうと、彼に合うはずがない。彼に合うのは、抽象的な黒い紋様だから。
「ぃ――ぅっ」
呻き声にはっとする。気付けば、膝に力を入れすぎていた。緊張していた体をほぐすためにも、股間を優しくあやしてやる。不手際を謝罪すべく、ゆっくりと丁寧に。ペニスを通る血管を揉むようなつもりで。
辛そうだった呼吸が、さっきと同じものに戻る。腕枕の先にある手が、髪の毛をそっと弄ってくれた。その優しさがよく解らなかった。行為の返答としてはおよそ相応しくない。だから鼻先を唇で食んでやった。
触れ合っている部分が熱い。蜜が溢れて、抑えられなくなる。いつかは得られなかった下準備が、今度は済んでいるということ。けれど、相手に貫かれたいとは不思議にも思わなかった。ただ芯だけは酷く疼いていて、腰を前後させてしまう。
大きく息を吸い込んで、ショーツの中に自分の手を差し入れる。二人分の手が入っているので、布地は伸びてきつく締められてしまう。肌に食い込んでくる細い感覚は、痛くて、今夜の跡を残してしまいそうで。敏感になっている体には強すぎる。
「んんっ、ふぁ……っ!」
みっともなく喘ぐ。自分の声に引っ張られて、刺激の大小も考えずに指を進めた。自分の秘所はぬかるんでいて、指先は沼で足を取られたみたいな感覚を伝えてくる。でも、気持ち良くなるのは沼の方。嵌られてびくんとなる。
ゆっくりと指を曲げて、割れ目の中へと沈めていく。潤いきったそこは、まるで抵抗感もなく私を迎え入れる。
いつもの手順とは違う。いつもなら、濡れてもいないうちに、衝動に負けることの方が多い。そもそも体を抑えきれないときでもなければ、自分を慰めたりはしない。男のオナニーは何も残らないらしいが、私のオナニーは何も残さないためのものの気がする。
「は、ああ――」
ぬかるみは、柔らかすぎるゴムのような感触になっている。潤滑油が出すぎている。くちゅくちゅと猥雑な音を立てて、それを聞かれて、恥ずかしさよりも先にもっとしてしまいたくなる。だからする。
入り口で襞をなぞっているだけの中指を、奥へと進めていく。じんとした熱さは波紋じみた緩さで全身に広がって、隅々まで届いていく。力加減が弱すぎると、内側で響かないから燃えない。火傷するくらいがいい。
「くう、はぁ……っ」
膝頭で愛撫を続ける。苦しそうな息が何度も私の皮膚を撫でていく。開いた士郎の口の端から涎が垂れているが、それも枕に吸われてしまう。
酷く蒸し暑い。舌なめずりで汗を拭う。汗が浮いているのは相手も同じだが、必要以上に構ったりしない。こんな無茶な状況でも、ルールは出来上がっている。唇同士を触れ合わせはしないし、性器同士を合わせたりもしない。でもそれは、多分丁度良いのだ。
それは私を痛めつけない遣り方で。
教会以外では紳士的らしいのだから。
「――ッ」
ぎ、と鈍い音が鳴る。歯を軋らせた所為だ。やたらと胸が苦しかった。
頭には靄がかかったようで、それを払拭しようと指はどんどん激しくなる。道半ばまで進め、勢い良く戻す。傷だらけで荒れた指は、内側で引っかかって痛みと官能を同時に脳へと送り込む。一番奥まではどうやっても届かないことが、もどかしくて仕方ない。
彼はまだ寝たフリを続けていて、時折思い出したように私の腰骨をなぞる。腕の筋肉が動いたからそのついでに、という感じなのが、尚更私を引っ掻き回す。くすぐったいような、痒いような刺激に身を躍らせる。
深く指を突き入れたまま、中で曲げた。内壁が歪められて、くぐもった悲鳴を漏らしそうになる。かつて貫かれた記憶。彼のがどんなに熱くて、どんな形をしていて、どんな風に私を痺れさせてくれたか。全てを覚えている。その感覚に近づこうと、私は工夫をこらしていく。けれどどうしても再現出来ず、蜜が太股を濡らしていくだけになる。
お互いの吐息はリズムをばらけさせたままで、一向に重ならない。一体感はまるで無いのに、尊重されているらしいことだけははっきりしていて、苛々がどんどん増していく。
膝を何度も押し付ける。布越しにペニスが脈打っていると感じる。彼は腰を前に出すこともせず、かといって後ろに引かせることもせず、どっちつかずな態度を取っている。
確かに体に傷はつかない。彼が私を痛めるようなことはない。私の痛みは私のもので、今痛んでいるのは私の勝手な都合によるものだ。相手を尊重する遣り方は、確かにとても紳士的なのかもしれない。
――紳士的である貴方なんて、望んでいなかったのに……!
視界が少しぼやける。一際強く指を暴れさせた拍子に、目尻から何かが流れた気がした。でもそれはきっと気の所為で、今私の視界が霞んでいるのは、体調不良か何かなのだ。
なんて酷い勘違いなんだろう。体が痛まなければ大丈夫だなんて、基本的なことを見失っている。何もされない方が、痛いことだってあるのに。
ああ、痛い。痛まないと感じられない。
あまりにも辛い。
だから私は、こんなにも濡れている。
父親は他者の不幸を娯楽としていたらしいが、私はその勘定に自分さえ含めないと立ち行かない。満たされたい、満たされたいのに、満たされたら私は感じられなくなってしまう。
そんな矛盾を抱えた私を、感じさせながら――痛めつけながら満たしてくれるのが彼だったのに。
「はぁ……ッ!」
縋りついて、もう一度眼球を嬲った。かつて私を見透かした不愉快な目。
思えば、その不愉快さこそが鍵だった。不躾な言葉と態度は、酷く私の感情を煽り立てた。そして彼の肉を貫いたときの嫌悪感と、殺してしまったという負い目が、立場をよりアンバランスなものにした。
導かなければならないのに、思うように近づけない。それだけで、充分面倒な関係ではあったのだ。なのに、それだけでは済まなくなってしまった。
不快感が募る日々。胸の中に他のものが無かったかは、今となっては曖昧になっている。ただ――狡くて、厳しくて、辛辣で、粗野で。悪口を並べれば数限りなく挙がってしまうような、ありふれた属性の男だった。
けれど。
数限りなく私の前を通り過ぎていった、そういう属性の男たちと違って、彼は優しかった。どんなに紳士的じゃなくても、どんなに失礼な態度であっても、構わないと思わせるものがあった。
有益なのかすら怪しい数少ない会話の中で、芽生えていったもの。それが小さな花を咲かせる瞬間。
あの夜の小さな拍手が耳から離れない。確かに彼はろくでもない男だったが、そこには最大の賛辞があった。
認められた。嬉しかった。
私にはそれで充分過ぎた。
「ん……」
眠ったフリを続けたままで、士郎の手が私を優しく撫でる。それをどう取るべきなのか解らない。その気遣いはありがたくて、なのにそうされればされるほど、望むものからは遠ざかっていく。
頭をスライドさせ、距離を置いた。冷静さに欠けている。今更そんなことをしても遅いことは明らかでも、ここで甘えて間違う訳にはいかない。中途半端な熱を引き摺ったまま、思考だけは簡潔になっていく。
焼けるような欲求だけを追う。膝を押し付けて動かし、ぱんぱんに張ったペニスに刺激を加えてやる。離れてもまだ顔に息がかかるほど、じれったかった交わりが激しくなっていく。
私は私でアルコールの匂いを嗅ぎながら、ぬるついた割れ目を何度も擦り立てていく。嫌らしいおつゆに塗れたクリトリスを摘み上げて、子宮が縮むような快感を走らせながら、曇った声を出して喘ぐ。
「ん、はあ、ああ――」
「っ、ふぅ……くぁ……ッ」
刺激に耐えられなくなってきたのか、士郎の指が私の背中や脚を掻く。まるで初心な女の子のような反応。しかしその爪跡は焼き鏝みたいに、表面から内側までを火照らせていく。触れた先から爛れてしまいそうな、ふしだらなラインが残される。
視界が濁る。もう顔は見えない。腕枕に涎を落としていたのか、顔を動かしたときに湿った感じがした。それくらい乱れている。
くちゅくちゅとガムを噛むような音が、静かに続いている。指先が止まらない。ぞくぞくしたものが背中を通り抜けて、私に最後の一押しを加える。
「は――あぁッ!」
掌で、溢れ出した愛液を受け止めた。びくん、と体を丸める。
まるで引き剥がされるように、指が体から離れていった。さっきまでの熱が嘘のように、唐突な寒気を覚える。
「う……っ!」
そして体を折り曲げた拍子に、ペニスをきつく圧迫してしまった。幹の太い血管を押し潰されて、士郎の膨らみが急速に力を失っていく。膝が断続的な痙攣を感じている。
長く尾を引くような、四肢の緊張。ずれたタイミングで訪れたそれは、何故か同時に収まったらしい。固まっていた筋肉が、段々と緩んでいく。耳元で、どちらのものともつかない荒い息を聞いている。それが酷く喧しく思えた。
「ふぅ、はぁ、ぁ――」
肺に溜まった酸素の塊を吐き出したら、目尻から何かがつっと流れていった。
視界がようやくはっきりして、我に返った。
5
不意に沈黙が訪れて、私たちは暫くそのまま歩みを進めていた。痛みは次第に強く、しかしあやふやになっていった。感覚が云々というよりも、存在が怪しくなってきている。
終着駅、という言葉を思い出した。もし目指している場所がそこだというのなら、電車から降りるのはどちらということになるのだろう。
離れてしまうことは、同じなのだけれど。
「あー―――」
不意に彼が間の抜けた声を上げる。そういう雰囲気ではなかったので、何がどうしたのかと訝ってしまう。
もどかしげに彼は続けた。
「オレ、アンタの父親の事を知ってるかもしれない」
「そう。別にいいです。分かりきった事だもの」
少し、期待外れだった。
縁はそれなりにあったのだろうし、何も不思議なことはない。もしかしたら気を遣ってくれたのかもしれないけれど、この際どうでも良いことだ。
いよいよ会話は無くなった。あんなに遠かった空の孔は、もう間近に迫っている。
歩みは止まらず、着実に目当てに近づいている。
重ねた指の感触は、もう微かなものになっていた。
透けてしまいそうな体感。瞬きをしたら何もかも消えてしまいそうで、世界から目を逸らせない。
幻であることは、最初から解っている。
私にとっては届かない雲。ただ、本来ならば薄れる雲も、雨になってしまえば後に続く。多分彼は、そこまで気が回っていないだろう。
――敢えて口にするまでもない、小さな誤算。
正しい現実で私たちが会っていなくても、物事には例外があるから。
「―――少し、未練だ」
僅かに聞こえる声。こっちの科白だ、と恨みたくなる。
私だって、それくらいのことは思う。
この揺り籠の中で、私がただ一人迫れる存在は、彼だけだったのだ。
その事実だけを抱えて、これからは歩いていかなければならない。
「……まあ、それも終わる事だ。
よし。それじゃあこのへんで」
残った感触は小指だけ。
それも半ば透けている。
私は足を止め、彼は先を目指す。
温かな繋がりが、あっさりと解かれる。
「じゃあな。オレがいなくなったら、また会ってやってくれ」
目を細めながら、彼はそう言って笑った。
最後の最後まで、とこっちまで笑いそうになる。
「……戻った後の行動は保証できません。任務が終わり次第、早々に帰国しないとは言いきれませんから」
逆に、いつまでも留まり続ける可能性だって、否定しきれないけれど。
見透かしたように、彼は笑いを深める。
「アンタにとってこの四日間はどうだった?」
「私ですか……? そうですね、この街は嫌いではありません」
厄介な性癖を満たすような人々が、この街にはひしめいている。
そして、触れたことのない眩しさが、この街にはある。
それは羨望のまま終わるものかもしれないが、明かりもない道ばかり歩くのは、きっと大変なことだ。
「そうだな。あの辛気くさい教会でも、バカみたいに騒々しい家でもかまわない。
―――また会おうぜカレン。そん時は、ご要望通り少しは紳士的になってるからさ」
その時には、一番会いたい貴方はいないけれど。
それでも、私は足を進めてしまうのかもしれない。
今、この夜のように。
目を閉じて祈る。さっきまで禁じていたことを、自然とこなしていた。
「そうですね。さようならアンリマユ。貴方を祓うのは、特別に見逃してさしあげます」
わずかな温かさも、すぐ風にさらわれた。
レイトショーが終わった。
また会おう、なんて。
/
朝の眠気に似た、気怠い時間が過ぎていく。
酔いも熱もとっくに抜け、逆に寒いくらいだと感じている。けれども、あまり動こうとは思えなかった。私はまだ腕枕の上で、ぼんやりと昔を思い返している。
昔と言うにはつい最近だ。たとえ夢でも、それは変わらない。
あの舞台を覚えているのは、今となってはバゼットだけだ。ただ、彼女は役者の一人であって、観客ではなかった。同じシーンを演じた訳ではない。彼に対する認識の違い以前に、知っている顔がきっと違う。
だから――記憶の共有は出来ない。それに、彼女はそういった形を恐らく好まないだろう。これは単に私の我侭に過ぎない。
まあ、最初から筋書きの見えていた話ではあった。彼の気持ちは解るから。
ある程度の所まで行き着いてしまって、世界が新鮮さを失ってしまったら、感情はどうなってしまうのか。泣いたり、笑ったり、怒ったり。全てが簡単になってしまうのは明らかだろう。
道は幾つかあったにせよ、彼はいずれその全てを辿るのだから、最後に残るものは二つしかない。笑って全てを誤魔化すか、壊して後に繋げるか、だ。心を殺すか体を殺すかの二択問題で、彼は後者を選んだ。
たとえ世の中はピエロが好きでも、彼にはその道は選べない。
そんな場所には居られない。
だから彼は演じきって、舞台にお別れをした。
――読みきれていた流れ。
ただ一つ見落としがあったとするならば、本筋に無理矢理介入した私には、大枠しか把握出来ていなかったということだろう。そしてその基本的なミスは、後々にまで響くことになった。
誰にだって役があって、枠の内側はイレギュラーの私にとっては不定形だということ。加えて、なるべく周囲に影響を与えないようにしたつもりでも、イレギュラーそのものが影響を受ける場合もあるということ。
出会って、視線を合わせて。
言葉を、体温を交し合って。
あの人が私のハートを砕くなんて――解らなかった。
もっと、もっと巧くやれれば良かったのに。
「ん……」
不意に、士郎の手が私の背を優しく撫でた。気付けばその目は開いている。暗黙の了解を破られて、私は取り繕うことを忘れた。
目を背けようと必死になるけれど、それさえも巧くこなせない。
そんな私を静かに見つめたまま、士郎は唇だけで、
「辛いのか」
と尋ねてきた。あんなことをされて、責める言葉の一つも無いままに、あっさりと。
反射的に頷きそうになってしまう。でも、それだけはどうにか抑えた。質問に対し、私も唇だけで応じる。
「いえ。そんなことはありません」
それ以上何かが続くことはなかった。この辺りが落とし所だろうと、私は布団を抜け出す。背を向けて、障子をぴったりと閉めた。閂があったらかけていたのに、と思った。
縁側に出ると、冷たい風が私の肌を覆った。熱がぶり返して、先程の質問が何度も繰り返される。
辛いのか。
辛いのか。
頭の中に響き渡る。
そんなことはありません。
それが本音かどうかは判断がつかない。ただ、強いて言えば、私は少しだけ寂しい。
でも、彼は言っていたのだ。
――終わる事と続かない事は違う、と。
彼流に言えば、今は続いている。そしてその中に、私はいる。彼が作った続きを、私が見捨てることが出来るだろうか。
それは諦念ではなく。
それは依存ではなく。
まして懐古でもなく。
好きな人が残したものを、まだ見ていたい。それを望むことは、間違っているだろうか。
部屋へと向かう足を止め、夜風でざわつく庭に目を向ける。こういう些細なものこそが、目に収めるべきもの。
呆、と溜息が出た。
突風が吹いて、髪の毛が巻き上げられる。夜風がますます寒いものになってきて、私は身を竦める。服の内側で包帯が擦れた。あまり痛くはない。
改めて歩き出す。
あの夜の行動原理。
――きっと意味はある。
今はまだ、地に足がついている。そう出来るうちは頑張っていこう。
色々と思うところは多いけれど、この街で生きていこう。
そうして続けていくことには、きっと意味があるだろう。
体の力を抜く。廊下の軋みで、我に返った。
気持ちは落ち着いて、やるべきことが自ずと見えてくる。取り敢えず解ったことは、今の私には休みが必要だということ。息切れをして足を止めたら、後に続けられなくなってしまう。
前向きなのか後ろ向きなのか解らない自分に、少し苦笑した。
まあ現状はこれくらいでいい。今やるべきことは、ゆっくりと眠って、自分の状態を戻すこと。それで起きたらお風呂に入って、体を綺麗にすればいい。
ただ、あるがままに日常をこなしていこう。
「さて」
自室に辿り着く。決めていた通り、布団の準備をする。服を着替えて、一日を終える準備はあっという間に終わった。
あとはいつも通り。
憐れみ深い神よ、心の闇を取り除き給え。安らかな眠りを授け給え。新しい日の喜びに目覚めさせ給え。主、イエス・キリストの御前にお献げ致します。
――Amen.
(了)
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