■ 狂う前に ■
身体を揺り起こされて、目が覚めた。
「……ん」
目を開けると、アツロウが私の顔を覗き込んでいた。数日前なら、驚きのあまり叫び声を上げただろうけど、今の私には驚くほどの事でもない。こいつとは、この数日、寝食を共にしているんだから。
「大丈夫か、ソデコ?」
「……凄く眠いけど、何とか……あと、ソデコじゃないって」
「そうやって切り返せるなら、大丈夫だな。それじゃ、見張りは頼むぞ」
「……分かったわ」
そう言うと、アツロウはすぐに私の隣に寝転び、いびきをかき始めた。
見張りとは、そのままの意味だ。山手線が封鎖されて閉じ込められたために、人間が凶暴化している。そして、さらには人間よりも危険な悪魔が大量に出没している。
これでは、ぐっすりと眠る事なんて出来はしない。そこで、アツロウの提案から三交代で見張りを置く事にしたんだ。この見張りのお陰か、夜間のトラブルには未だに巻き込まれていない。何だかんだで、アツロウは頭が良い奴だ。
しかし、こうしてたった一人でただ起きているというのは、退屈でもあり、怖くもある。
「……」
辺りを見回すとまだまだ真っ暗だ。それが私たちの置かれた状況が夢ではないと端的に教えてくれる。普段ならどこからともなく漏れ出る人工の灯りがあるはずなのに、今はほとんど存在しない。ただ、月や星の灯りだけが、僅かに周囲の姿を浮かび上がらせる。
暗闇に慣れた目が最初に捉えたのは、隣で寝ているアツロウと、その向こうにいる一人の少年の姿だ。そして、さらに目が慣れると、周囲を覆う巨大な壁のような影が見えた。目を凝らしてみると、その正体は公園の植木だった。
「……公園、か」
そう。私たちは今日、公園に寝床を構えていた。
そう、公園だ。そこの剥き出しの地面に、運良く手に入れた毛布を敷いて、何とか寝る場所を確保した。虫がたかり、汗が染みこんだ非常に不衛生で不快な寝床だけど、これでもまだ良い方だ。それすらできず、地べたに寝転ぶか、そもそも寝られるだけのスペースを確保できず、公園を出る人すらいる。
そういう人たちに、救いの手を差し伸べられたらと思わないでもないけど、私たちも自分が生き抜く事で精一杯だ。悪魔が溢れかえり、電気も水道も止まってしまって、おまけに家へと帰る手段がまるで無いという現実は、おそろしく精神を削り落とした。
「あ……う」
山手線の中に閉じ込められるという、気が狂いそうになるような現実。泣き出してしまいたくなるけど、何とか堪える。涙が一粒でも出てしまうと、決壊した川のように、際限なく泣きわめいてしまいそうだったから。
しばらく歯を食いしばり、絶望に何とか耐えると、今度は乾きが襲ってきた。そういえば、今日は気温が高かったというのに、水すら満足にあり付けなかった。こんな真夜中でも、周囲の空気には熱気が満ちている。暑い。喉がカラカラだ。さっき泣かなかったのは、涙を流すだけの水分が身体に存在しなかっただけではないかと思えた。
舌で唇を湿らそうとするけど、乾ききったそれらは互いに引っ付いてしまい、痛みさえ感じてしまう。身体は乾ききっていた。
これが自分の家でなら、冷蔵庫に入っているミネラルウォーターやジュースで喉を潤せば良いだけだ。しかし、今は一杯のぬるい水すら貴重品の扱いだ。東京のど真ん中なのに、とても信じられない状況だ。さらに信じられないのは、そういう不便極まりない有様に、私たちが順応していっているという事実だ。
「ああ、もう!」
何だか、目が冴えてしまった。眠らなければならないというのは分かっているけど、とても二度寝できる精神状態じゃない。体調も最悪だ。体中は汗でべたつき、髪は泥や埃で汚れていても、手入れすら満足に出来ない。
おまけに、体の臭いが酷い。この時期に風呂へ入れないから、私の身体は凄い体臭を放っている。匂いなんて気にしている場合じゃない事は分かっていても、女の子としては到底納得できない。
しかし、食べ物も水も満足に得られない現状では、それを我慢しなければならない。今はまだ、コンビニやスーパーなどで食料が残っているところもあるが、今後はどうなることやら。
「……はあ」
状況は、日を追うごとに、加速度的に悪くなっていっている。
これが、自分の不始末でこうなったのなら納得はできただろう。もしくは、何らかの事故に巻き込まれて、密林の中に放り出されたなら、すっぱりと現実を認めてうじうじと悩まず生きる事に全力を尽くそうという開き直る事もできただろう。
しかし今の状況に巻き込まれたのは、まったく他の事が原因であって私にはまるで落ち度がない。それに、周囲は人がたくさんいて、高層ビルや鉄道など文明の利器が大量に存在する。これでは、自分が悪いと納得する事も、嘆いていても仕方がないと開き直ることも出来はしない。
私は、あの日、ただ友人と一緒に渋谷に来ただけだ。それだけで、こんな異常な世界に置いてきぼりになってしまった。悪魔だの天使だのに振り回され、色んな事件に関わり、戦う羽目になってしまった。
だからだろう。理不尽な思いに支配され、どうにも身体が気怠いのは。
心のどこかで、これは夢だと叫ぶ自分がいる。そして、これは現実だと冷静に現状を把握する自分もいる。それらが常にせめぎ合っていて、いつの間にか自分の立っている場所すら分からなくなりそうだ。それが、とても怖い。
これまで生まれてから親や先生、友人たちから学んできた常識が、どんどんと崩れ去っていく。私たちは単なる一般人で、何かと戦うなんて想像した事もなかった。いや、アニメやゲームに多少影響されて、戦う自分を想像した事くらいはあったけど、まさかそれが現実になるなんて夢にも思わなかった。
昼間は、アツロウや――アイツと一緒にいたから、誰かを守るために飛び出す事もできたけど、一人だけだと行動を起こせなかっただろう。どこかで震えて助けを待つか、それとも訳も分からず逃げ惑うか……いや、そもそも、この時まで生きていけたかどうかも怪しい。
悪魔に殺された人がいた。悪魔を使って人を殺した人がいた。悪魔を殺した人もいた。
私が、殺される側に回っていてもおかしくはなかった。もしくは、殺す側に回ったかもしれない。
警察官や、自衛官といった人を守るために訓練を行っている人たちでさえ、中には一般人を襲う者が出てきている。自分が、そうならない保障はない。
「……」
私は、手に持っていたCOMPを起動した。勿論、周りに誰もいない事を確認して、だ。このCOMPは、今や山手線の内側において、重要な武器となっている。COMPを奪うために、殺し合いになった事例も多い。下手に見つかると、どんなトラブルを呼び込むか、分かった物ではない。
起動したCOMPには、様々な悪魔の名前が映し出された。COMP自体がゲーム機のような形をしているせいで、この悪魔たちの一覧画面も何かのゲームだと思ってしまうが、そうではない。この悪魔たちは、実際にこの世界に呼び出す事ができて、私たちの戦う手段となっている。
頼もしい反面、煩わしい。この機械があるから助けられた事も多い。だが、この機械のせいで闘いに巻き込まれた事もあるんだ。
これを持って、誰かに襲われている誰かを助けた事がある。それは、とても誇らしかった。それは、粉々になって光を反射する硝子のように綺麗な感情だった。しかし、同時に叩きのめした連中を見ながら、殺してやりたいと思ってしまう事もあった。それは、溶けた鉛のように毒々しい感情だった。
そんな自分に気付いて、恐ろしくなった。これは、自分ではない。自分は、どこにでもいる普通の女の子だったはずだ。それが、一週間もたたないうちに、鉄砲よりも物騒な武器を振り翳して、自警団の真似事をしている。
こいつのせいで、どれだけ自分は変わったんだろう。COMPを見ているだけで、何だか分からない感情が胸に渦巻く。忌まわしいこの機械が、この悪魔たちが、私たちの命を守る生命線だ。それと同時に、自分たちを戦わせようとしている死に神の鎌にも思える。そう考えると、思わずこの機械を地面に叩きつけて、粉々にしてしまいたくなる。
だけど、さすがにそれは理性が押しとどめた。そうしたところで、自分の命を危険にさらすだけだ。
私は、こんなところで絶対に死にはしない。何としてでも、この絶望的な場所から逃げ出して、家に帰ってやる。そうだ。こんな異常な状況だって慣れてしまったんだ。帰ってしまえば、こんなところの記憶なんてあっさり忘れて、元の日常に戻れるはず。
そう、家に帰るんだ。私は、絶対に死なない。そして、この山手線の内側から、みんなと一緒に絶対に脱出してみせる。
学校に行って、友達と話しながら馬鹿をやって、たまには失敗をして落ち込むといういつも通りの日常を取り戻す。犯罪を見た時も悪魔を召喚して飛び出すのではなく、警察にまず通報するという一般人としての生活を取り戻す。
アツロウを見る。そして、さらに向こうで寝ているアイツを見る。こいつらもだ。こいつらと一緒に、絶対にここを抜け出してやる。
そして――
「……」
私は立ち上がって、アツロウの身体を乗り越え、アイツの側に寄った。妙に可愛らしい顔をしたコイツは、すやすやと寝息を立てている。その顔を見ていると、妙に落ち着く。まだ頑張れると思ってしまう。
そして、思うんだ。ここを抜け出して、真っ先にすべき事を。
「好きって……言ってやる」
言葉に出してみる。聞いている奴は誰もいない。聞いているのは、せいぜいそこらを飛び回っている蚊やら蛾くらいのものだろう。それで、今は良い。それで良いから、ここから出してほしい。
私は、祈った。神でも悪魔でもなく、目の前の一人の少年に。
コイツは、私と年も変わらず、立場も変わらないはずだ。でも、それでも彼以外に、私をここから出してくれる人はいない。何故か、封鎖が始まってから、ずっとそんな確信があった。
「期待してるわよ」
それだけ呟いて、私は自分のスペースに戻って、見張りを再開する。何故か――心が少しだけ軽くなっていた。
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