夜伽話





(なぜ、このようなことになったのであろうな?)

 朱い月は目の前で寝ている男に小声で尋ねた。相手は寝ているのだから返事がかえってくることはなく、また彼女もそれを期待していなかった。
 それはただの独り言。

 月の光が淡く、儚く降りしきる庭園。露に濡れた草花が闇と銀色の月の光に包まれ、とけ込んでいた。
 絹のような滑らかな白いドレスを朱い月はそのふくよかな胸元に引き寄せ、美しい裸身を隠した。いまだ行為の名残に体を熱く潤ませていたが、それがほどよい脱力感となって躰の芯に絡みついていた。眠いような、嬉しいような、そんな不可思議な充実感。

 切れ長な目元はいまだなお、朱を散らしたよう。ほつれた金髪が汗ばんだ肌にはりつき、艶めかしい。今さっきまでの激しい嬌声をあげていた唇は今はただ静かな微笑を浮かべているだけ。

 呟いた後、朱い月は男を眺める。
 そこにいるのは、どこにてもいるような男だった。
 目の前で静かに眠る男。人間の身でありながら、アルクェイドを屠った男。優男のような外見なのに、意外と強情で、そして鈍感なくせに機微をしる、矛盾している男。

 殺そうとしていたはず。自分の身体を獲得するために、因子として眠る自分を再生させるために、死んで欲しいと願った男だった。この男が死ねばアルクェイドの心は砕け散ってしまうだろう。そうなればこの身の復活も可能だったかもしれなかったというのに。
 なのに――。

 遠くで虫が鳴き、静寂に染みいっていく。
 男の側に寄って、覗き込む。静かな眠りについていた。そのまま『 』に繋がっているかのような、死と見間違うような深い深い眠り。
 その男の頭をそっと抱え、自分の膝の上に乗せた。膝の上に感じる重みと体温が、なぜか心地よい。こうして男を感じていたかった。
 そして朱い月はただ眠る男を見つめるだけ。
 いつの間にか虫の声も止み、静寂が二人を包み込んでいた。
 あるのは銀色の月光と深い闇と揺れる草花と朱い月。そして男。ただそれだけ。
 まるで世界中のすべてが消えてしまったかのよう。淡い銀光があたかも二人を照らし出すかのように降り注いでいる。
 聞こえるのはふたりの吐息。
 動くのは草花と光を編み込んだような長い髪。
 それはやさしさに満ちた時間だった。

(なぜ、このようなことになったのであろうな?)

 また朱い月は呟いた。柔らかい笑みを浮かべたまま呟いた。

 いつの頃からだろう、待つのが好きになったのは。
 この男が虚ろな夢を伝わってこちらにくるのを待ち侘びるようになったのは。
 この身が朱い月であり、アルクェイドではないといくら諭しても。
 お前もアルクェイドだろう、なんて言ってしまうような、そんなお人好し。
 幾度この夢から追い出すために追い払っても。
 朱い月も助けるといった莫迦。
 そしていくら追い払っても、しつこく現れ続けた人間。
 時折、交える話題。
 意味の無い会話。
 そんな他愛もないことを話すために訪れる、愚か者。
 何度も殺すと言い、幾度も殺そうとした男。
 夢ゆえに手は出すことはできなかったが、それでも精神を傷つけることはできるかもしれないというのに。
 なのに、それでもここに訪れ続けた、なんて愚かでこんなにも莫迦な男。
 そしてそれは今、朱い月にとっては――。

 不可思議な気持ちだった。言葉にならない、言葉にすることができない想いに朱い月は包まれていた。
 死と静寂に満ちたブリュンスタッド城にいる虚ろな影。
 それこそが朱い月だったはず。
 アルクェイドの心が衝動に負けるまで、魔王として目覚めるまでの間、朱い月はただ静かに眠るように、虚ろな影として存在するだけだったはず。
 そうだったはずなのに、今はこうして――。

 朱い月は男の髪を撫でる。少し固い男の髪。その手触りがよくて、また撫でてしまう。
 こうしてこの男が来るのを待ち侘びている自分がいることを朱い月は知った。
 殺そうと、殺してしまおうと思っていたのに。
 無意味で無駄で、何の意味もない会話を重ねているうちに。
 こちらに向けられるやさしい笑みに。
 何の根拠もない自信に裏打ちされた言葉に。
 呆れながら。
 戸惑いながら。
 そして惹かれながら。
 いつの間にかこの人間を待ち侘びていた。
 気がつくと抱擁しあっていた。
 いつしか唇を重ね合う仲になっていた。
 夢の中とはいえども、逢瀬を重ねるようになっていた。
 馴染んでいた。馴染んでしまっていた。この男に。
 いつもならば、逢瀬の後は心地よい疲労感と幸福感に包まれて寝てしまう朱い月だが、今宵はまだ眠れそうになかった。
 逢うたびに、交わるたびに、さらに求めてしまう自分。
 こんな男なのに、殺そうといまだ誓っている相手だというのに。
 なのに、こうして逢っていてさえも、一緒にとろけたいとさえ願ってしまう。
 いっそこのまま溶けてしまって、混じり合ってしまえばいいのに。真祖というものも、
人間というものも、月の王というものも、何もかもなくなってしまうというのに。
 そう願ってしまっている自分がいることに、朱い月は気づいた。
 なぜそのような自分がいるのか? なぜ真祖の王として復活することと動揺に心がける
ことがあるのか? それがこのような一介の人間に男のためなのか? それが朱い月にとって――

(わからぬ)

 そう呟いて、朱い月はくすりと笑った。
 この男の口癖である、わからない、をいつしか自分も使っていることに気づき、思わず笑みがこぼれる。
 こんなに馴染んでしまったのだと思う。
 かといって殺したいという思いはまだある。月の王としての復活。第六法をもちいて世界に君臨する。
 それは衝動にも似た激しく深い渇望。
 そのためにこうして復活の時を待っていたのだから。すべての真祖の中に因子を埋め込んできたのだから。

 だけれども。
 朱い月は男の顔を触れ、首すじを撫でる。
 細く柔らかい首。真祖の力であれば簡単にねじ切ることが出来る。このまま殺してしまえばいい。うまくやればこの男の精神を傷つけ、植物人間にさせることが可能かもしれない。そうなればアルクェイドの心に絶望を植え付けることができるかもしれない。試してみる価値は十分にある。

 朱い月はそっと男の喉をなでる。女の体にははっきりとでてこない喉仏。それが相手が男だということを意識させて、艶めかしく思えた。そこを潰すだけで男は苦しむだろう。
 ほんのちょっとした力。真祖としての力さえいらない。普通の生身の女性でもできるような事柄。しかしほっそりとした指はそこを軽く撫でるだけで、男を傷つけることはなかった。
 この男ともに居たいと願うのも、狂おしいほどの渇望だった。

(なんで、このようなことになったのであろうな?)

 朱い月はまた呟く。
 傷つけることなんて、朱い月にはできなかった。この男との逢瀬のたびに感じる、嬉しいような、泣きたいような、おかしな気分にただ包まれていたかった。
 それは心が千切れるような、切ない願望。それは絶望にも近い、昏い衝動だった。
 こうしてずっと側にいたい。ずっと会話していたい。ずっと口づけしていたい。ずっと体を交わらせていたい。ずっとずっと抱きしめていて欲しい。ずっとずっと抱きしめたい。

 言葉にはできない。してはいけない。そうしたら、何かが終わる気がした。
 だから、朱い月はそっと顔を近づける。
 吐息がかかるぐらい顔を近づけても、男は眠ったまま。

(今どのような夢を見ておるのであろうか)

 それとも見ておらぬのか――そう呟くと、そっと唇を近づける。
 この胸を締め付けるような切ないこの何かを、この胸の奥で震えるこの何かをほんの少しでもこの朴念仁に伝えたくて。
 とたん、男の目は開く。朱い月は気づいたが、そのまま唇を重ねる。奪うように、ただただその想いのままに。
 星が瞬くしばしの間、唇を重ね、そして名残惜しげに離れた。
 なにか言おうとした志貴に朱い月は、おはよう、と挨拶した。
 挨拶して起きあがろうとした男を女はそっと手で制する。少しでも膝の上の温もりを感じていたくて、男を自分の膝の上に押しとどめた。

「重くない?」
「いいや、ちっとも」
「痺れない?」
「大丈夫だ」

 そなたの重みだからな、と心の中でそっと呟く朱い月。それが形にならないものとなって、端麗な美貌にほんのりと艶めかしく色づかせた。そんな朱い月を眺めて、志貴は、綺麗だな、と素直に思った。
 深い闇の中に月の光をうけて浮かび上がる白い肌と金髪。朱い瞳はやさしい色を帯びていた。いつもの冷徹さから思い浮かべることができない、やさしい微笑。頬は朱を散らし、匂い立つような艶めかしさがあった。
 そして鼻腔を擽るのは甘い香り。たぶん朱い月の香りだろう。月のように凛と澄み切って冷たいはずなのに、こんなに芳しく、こんなにもとろけさせるほどに心地よい、甘い香りだった。
 膝枕の優しい肌触りが気持ち良い。肉付きのよい太股のほどよい弾力。そして時折子供をあやすように髪を撫でる手。朱い月のほっそりとした指先が髪をかるく優しく梳いていく。
 志貴は朱い月へと、そっと手を伸ばす。
 不思議そうな顔をしている朱い月の顔をとおりすぎて、頭の後ろに手を当てると、その顔を引き下ろした。
 引き下ろされた美麗な顔に、志貴は顔を近づけると、その頬に触れるだけの可愛らしいキスをひとつ。

「もう一度、そのぅ……いいかな?」

 男の率直すぎる意見に朱い瞳は咎めるように細められるが、やさしい輝きを湛えていた。

(ああ――この男には敵わんな)

 朱い月は志貴をみて、微笑む。胸の奥が少しだけ温かくなる。真祖の王として君臨していたときには感じることはなかった。そしてアルクェイドの虚ろな影の時には感じるとは思ってもみなかった、それ。
 虚ろな自分にはなかった、温かくて、でも切なくて、止めどもない『それ』。なのに
『それ』はとても心地よい。胸の奥からこみ上げてきて、この躰から溢れてしまう。
 今はそれを感じていたい。この温もりを、この切なさを、その気持ちよさをもっと感じていたい、と朱い月は願い、今度は彼女の方から顔を近づけた。

(そなたの申し出を断われるわけなどできぬと知っておろうに)

 男への可愛らしい悪態をつきながら、溢れる想いのままに引き寄せられるように。
 月光に照らされながら、二人はまた唇を重ねる。
 吐息が絡み合う。
 甘く、熱く、ただ蕩けるように、ただただひたすらに。
 煌めく星と淡い月の光と優しい虫の声が厳かに二人を包み込んでいた。


Fin.







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