The interview with Endless
op
かつて、誰かがこの城を「地上で最も月に近い場所」と喩えたらしい。なる程な、と衛宮士郎は象牙の城を見上げた。まだ門までは数キロはあるだろう。にも関わらずその巨大さは首が痛くなる程だ。最も高い尖塔の頂きは、満月を突き刺さんばかり。ともすれば、この城は月と地上を結ぶ階段なのかもしれない。
「わたしはここまでよ。これ以上は貴方一人で行きなさい」
透明度の高い声に、士郎は「ああ」と応えてから、口内がやや乾いているのに気付いた。知らずの内に緊張していたらしい。
「悪かったな、カレン。案内なんてさせてさ」
背後に立っている、歳若いのに杖を付いているシスターは、つんと微かに顎を上げた。
「本当、最近人遣いが荒くはありませんか。登山なんて始めてだわ」
「だってさ、教会の人間じゃないと何処にあるのかも解らないじゃないか――千年城なんて」
人が立ち入るのを許さない魔境。カレンは溜息を付いて、まだ視力を残している左目で士郎を捕らえた。
「本気ですか」
「ここまで来て、それはないだろう?」
「正気とは思えません。いえ、それはいつもの事ですが、今回はとっておきね」
士郎は肩を竦めた。
「……カレンは、アイツと面識あったっけ?」
「ええ。黒騎士征伐の際に。士郎もいた筈でしょう」
「そうだった。散々な目に合ったな、あの時は」
「騎士団は壊滅、代行者も敗走。生きて帰れたのは奇跡でした。貴方もよく首を突っ込んできたものだわ。余程嫌いなのね、自分が」
「よく言うな、カレン。お前だってあんな無謀極まる作戦に参加するなんて、正気の沙汰じゃないぞ」
士郎は常の如く、眉根を険しく寄せる。渇ききった夜風が、色素の抜けた髪を洗っていった。カレンはといえば、杖から手を離し、敬虔に祈って見せた。
「悪魔祓い、ではありませんが。真性悪魔の居場所を特定するには私という異能が必要だった。だから召還に応えたまでの事です。いわば日々の労働の一環に過ぎません。それに、忌まわしき死祖たる悪魔と関ったからこそ、この地を知り得る事が出来たと解っていますか。この恩知らず」
「……む。確かにそうだけど、さ」
目を細めた士郎には、カレンは出会った頃と変わらずに映る。違うのは傷の度合いだろう。もう右足はまともに動かないし、眼帯で被った右目は失明している。指だけは、まだオルガンを演奏できた。その事実にだけ、士郎はいるかどうかも解らない神に感謝している。不遜な態度なだけに、カレンに打ち明けた事はないが。
大体が、変わったといえば自分の方が変わり果てている。朝に鏡を見るたび、まさかアーチャーと同じ容貌になるとはなあと苦笑するのだ。怖くて遠坂には暫らく会っていない。
まったく、コイツは。士郎は軽く頭を振ってから、
「このサドマゾ女。どうやったら辞めるんだよ、その仕事」
「そのまま返すわ、無自覚M。鏡を見る事を勧めましょう」
他意なく言い合った。
「さて、と。……じゃあ行くよ。待ってくれなくて良いぞ」
「慣れていたつもりだけど」
「ん? なんだよ、カレン」
カレンは小刻みに銀色の髪を揺らした。何処となく不満げな様子である。すぐ無表情に居直ると、
「……一人で下山するのは無理なのですが。貴方って女性を、こんな人里離れた場所に放置するタイプだったかしら?」
「う、まあ確かに。半分俺が担ぎ上げて来たしな」
「なるべく早く帰って来なさい。自慢ではありませんが、体力には自信がありませんので」
何度か目をしばたかせてから、士郎は苦笑とも微笑とも採れる弧を口元に浮かべた。
「解った。まあ、何かあってもなくても、時間なんてかからないさ」
軽く手を振って、真っ直ぐ岩肌が露出した野を進んでいく。カレンは身動ぎせずに、赤い外套を纏った彼の背中を見送っていた。
「……無謀ね」
今一度、カレンは神に祈ろうと手を組んだ。
「教会も、死祖の王侯も、魔法使い達ですら予測できずに、様子見に終始しているというのに」
実際、尋ねて確かめようとするなんて。
かつてあり得なかった事態であり、予測されていた宿命はとうとう訪れてしまっていた。月の王に至る器。恐らくは初めて人を寵愛した真祖。最悪の魔王と成り得る存在。
真祖の姫君が、遂に最愛の人間を失って四十九日が経った。今日、足を向けたのは衛宮士郎が日本人だからだろう。そして、カレンが把握している限りでは、彼が最初の弔問客という事になる。
衛宮士郎と遠野志貴は、死都で数度だけ顔を会わせた間柄だった。
暫らく歩いて、士郎はようやっと千年城の門の前に辿りついた。ここまでは無事だった。巨人が潜る為に作り上げたと法螺を吹いてもいい扉が、闖入者を威圧していた。何処からか、時計か何かの歯車の音がする。
「……さて、と」
士郎は門へ至る階段の前で、しばし腕組みしていた。門扉をしげしげと眺めて、首を傾げる。
どうやって来訪を告げればいいのだろうか。インターフォンなんてないよなあ。
自分が行おうとしている事からすると瑣末に過ぎる。けどわからないものはしょうがない。イリヤの城だと、着たらもうセラが機嫌悪そうに待ってていてくれたのだが。どうしようもない事に悩みかけた時だった。
「――こんばんわ。一体誰かしら、魔術師に知り合いは殆どいないんだけど?」
唐突に、死んだと思った。その感覚を疑おうとも、まして振り払い、抗おうとも欠片にも思えなかった。
首の筋肉に直接電気で衝撃を与えた様に、階段の上を仰ぐ。門扉は剃刀一枚通さないまま、身動ぎだにしていない。空気さえ動いていなかった。気付かなかった。なのに、その女性は確かに其処にいて、士郎を睥睨していた。
繊細な金の髪を戴いた、例え様もなく白い肌の、美麗な――人ならぬ者。華奢でさえある、女性らしい体付きであるのに、一瞥しただけで諦観を覚えさせる存在感。
衛宮士郎は理解せざるを得なかった。
この女性こそ、自分が訪ねようとし、尋ねるべき事柄がある相手――アルクェイド・ブリュンスタッドである事実を。
1、
「――聞いてる? そこの魔術師」
微かに不快さが滲んでいた。アルクェイド・ブリュンスタッドは後手に、何故かトランクケースを持っていて、不審そうに小首を傾げてきた。
返答をしなければ。気は急くのだが、唇が戦慄いていう事を利かない。士郎は「あ、ああ」と意味のない呻き声を上げた。
差し向けられている平坦な面差しには、温度などない。冷たくもなく、熱くもない。ただ観察されている。つまらない、見慣れない異物に対する視線だ。興味を失えば、踏み潰した事も覚えていないような物への。
カチカチと、機械式時計が士郎を忙しなく促してくる。ようやっと、声帯が生きている事実を思い出した。
「……あの、アンタがブリュンスタッド、か?」
「そうだけど」アルクェイド・ブリュンスタッドはあからさまに苛立って、「誰なの?」
「ああ、悪い。その――弔問に来た、って言えば良いのかな。ちょっと違う気もするんだけどさ」
たった数事口にするだけで、身体中の水分を使い果たした気がする。正直、生きた心地がしない。唾もないのに喉を動かして、士郎は真祖の姫君を瞠目した。
すると、
「え、志貴の?」
アルクェイドは瞳をまんまるくして、
「なーんだ。志貴のお友達? 珍しいわね、あ、もしかして日本人?」
にぱーっと笑いかけてきた。途端に士郎を包み込んでいた静けさが消滅する。視界も明るくなった。
「当たりだけど。って日本語で話しているだろ」
「そう言えばそうね。へー。でも意外ね、シエル達以外に訪ねてくる人間がいるなんて」
唐突に親密そうになった口調に、士郎は戸惑いを隠せなかった。なにせ全てが一転したのだ。心境も身体も、変化に追いついて来ない。
士郎は、改めてアルクェイドを眺めた。
溜息が出るほど美人だ。聞いてはいたけれど、周囲から朴念仁呼ばわりされる自分でも見惚れる。そんなのは、個人的には人生一度しかなかった事だ。
その彫刻家が悲嘆に暮れるような女性が、人懐っこく笑いかけてきている。イマイチ理解しきれない。
「ふーん。志貴って友達少ないとか言ってたけど、ちゃんといたんだ。それも魔術師なんて、本当に意外」
アルクェイドは階段の上から身を乗り出して、まじまじと士郎を確かめてきた。士郎は反射的に背中を逸らしたが、相手は気にしていないようだった。
「友人って言うか……死徒とやり合った時に、偶然知り合ったんだ。お互い死ぬかと思ったけど」
「じゃあ日本にいた頃じゃないんだ」
「ここ一、二年ぐらい、かな」
そも、友人と呼ぶには違和感があった。遠野志貴からすればどうだったか知らないが、士郎にとっては馬が何故か合わない相手だったのだ。志貴は柔和で、人当たりもよく、死都の真っ只中でさえ誰かを見捨てようとしなかった。振りかえれば好感を持つのが普通なのにと、自分でも不思議に思うのだが、顔を突き合わせている間は苛立ちを覚えていたのだ。
自覚している理由としては、遠野志貴があまりにも機械的に――そう、機械としか感じられない戦い方をしているからというのが上げられた。当時、やはり同行していたカレンなどは、
「殺人貴――遠野志貴のあり方は、貴方の根幹を否定するからよ。衛宮士郎は常に、全ての人により大きな幸福を願う。彼は違う。貴方からすれば、不幸で救われるべきかも知れない程小さな幸せに満足して、自らの境遇を全て受け入れている。彼の隣では、貴方は呼吸すらできない。救いを決して必要としないのだから。……ふふふ。面白いわね、貴方って。東洋で言う悟りかしら、一種見習うべき心境に至っている相手が、苦手でしょうがないなんて。救い難いほど歪ね」
長々と、しかも嬉々として評してくれたものだ。
「つい最近、なんだ」
アルクェイドは安堵の笑みを浮かべていた。
「よかった、友達が出来るくらいだったんなら、志貴もつらくなかったんだね」
ずくりと、その一言は士郎に痛みを与えた。軽く頭を振って耐える。
「でも――もう志貴の身体は、ここにはないわ。妹のトコに送り届けたもの」
「やっぱり日本に、か?」
「うん、そうよ。形見分けも無理だし。だって志貴、なにも持たなかったんだもの。残ったのって眼鏡と包帯とナイフだけで、包帯はシエルが持ってったし、ナイフは妹に返したわ。眼鏡は、ここ」
アルクェイドは手にしていたトランクケースを突き出した。するとがらんがらんと空虚な音がした。彼女はまた人懐っこく笑い、
「これ、まだ志貴の眼鏡しか入ってないんだー」
刹那、切なげに瞳を細めた。
2
「そうなのか。アイツの実家は、どちら側なんだ?」
「んー。比較的異端だと思うけれど、近づかない方が良いわよ。妹に燃やされるから」
「……は? なんだ、それ」
「妹は、もうこっち側全般が嫌いでしょうがないでしょうしね」
肩を竦めるアルクェイドに、士郎は複雑な気分になった。事情は解らないが、まあ自分に当てはめて見れば想像は着く。
「だから、悪いけど。来てもらった意味がなかったわ」
そう言い残して、アルクェイドは踵を返そうとした。士郎は慌てて呼び止めた。
「待ってくれ、アンタに聞きたい事がある」
「わたしに?」
士郎が意を決して首肯すると、アルクェイドは軽く鼻を鳴らし、
「そっちが本命なのね。協会当たりの斥候ってところかしら」
つまらなさげに唇を尖らせる。
「まさか。あんな所とは関係がない。俺は落ち零れだしな」
「同じ事よ。わたしが、志貴の血を吸ったかどうか確認しにきた訳でしょう?」
寵愛する人間を死徒に換えても、生き長らえさせようとするのではないか。真祖の姫君への畏怖と懐疑は、この一言で要約された。吸血鬼をよく知る人間にとっては、充分に想定し得るものだった。吸血衝動は、少なくとも死徒にとっては、生存に必須な行為であり慰みであり、一種の情愛から発する衝動である。誰かを欲しいと思う時、愛欲は直接的な餓えに変換される。人間でも愛情は破壊衝動や時折食欲と並行すると唱える説が、昔あった。故に、真祖でも同様であるかもしれず、かつて遠野志貴を彼女から引き離そうとした動きもあったらしい。
アルクェイドは感情を消した。変わりに彼女の目元には、退廃が通り過ぎた。
「馬鹿みたい。そんな事したって、志貴に怒られて嫌われるだけじゃない。血を吸ったわたしは、もうわたしじゃないもの。違う私が志貴と会ったところで、意味なんてない」
満月の明かりは朧な白で城門と彼女を包んでいた。現実味のない色彩は、触れるだけで掻き消えそうだ。触れると、多分冷たいのだろう。士郎は「そうだろうな」と素直に同意した。カチカチと時計が五月蝿い。
「アイツ、血を吸わない吸血鬼は嫌いじゃないって言ってたしな。だから、その事に付いては別に心配なんてしてない。アンタが魔王になっているかもって思っていたら、こんなところ来れないだろ」
するとアルクェイドはまた目を丸くしていた。
「それって、志貴に聞いたの?」
「死都で会った事があるって言っただろう? あの時はかなり追い詰められた時があったんだ」
世界に地獄は数多くあるが、死後も尊厳を弄ばれる程の陰惨さは、其処にしかない。死都――吸血鬼によって蹂躙されつくした地である。更に、死祖自らが降り立っていたなら、『地獄』とは喩えではなくなる。遠野志貴と衛宮士郎が邂逅したのは、現在に顕現した魔女の釜だった。
「でさ、本当に駄目かもな――って時に、ちょっとな」
戦争映画で、絶体絶命の窮地に直面した兵士達がするような会話。家族とか恋人とかについて話すなんて、自分達がするなんて思わなかった。
士郎は追い詰められていた自分を嘲笑するように両手を上にして、
「そんな話をしたんだ。だからさ、アンタが遠野の血を吸った云々は、他は知らないけど俺はそう思ってなかった。でもさ、もしアイツとまた、一目でも会えるかもしれないって時、アンタがどうするかが知りたかったんだ」
もう意味がない質問だけどな、と断って、士郎はアルクェイドに向き直る。彼女は、剣呑な気配を纏いはじめていた。
ころころ感情の方向が変わるんだな。少しばかり慣れてきたが、背筋に冷や汗を掻くのは止められない。ふと士郎は対面の最初を思い出した。あの感じ。諦めが悪いと自負する自分が、瞬時に絶望しかけるどうしようもない空気。
世界が死んでいく気配だ。けれど、歯車だけが動いている。
「……どういう事? 魔術師、貴方何が言いたいの」
「言いたいんじゃあない。聞きたいんだ。多分、世界であんた一人にしか解らない」
士郎の乾いた唇から、重苦しい嘆息が落ちた。アルクェイドは怪訝そうに小首を傾げる。
恐らく、ここからの質問は命がけだ。覚悟は決まっている。士郎は深呼吸をしてから、淡々と言った。歯車が五月蝿いな、と思いながら、
「――抑止について、話をしよう」
3.
粉雪が舞い降りるような速度で、アルクェイドは瞳を閉じた。どうやら話に付き合ってくれるらしい。
と思えば、片目だけを開けて、
「つまらない話じゃないのなら良いわ。……志貴がいなくなっちゃってから、どうしようもなく退屈だから」
老婆の様にしわがれた声だった。
士郎もゆっくり首肯して、やはり老犬の呼吸みたいに語り始めた。
「間違っていたら訂正してくれ。遠野から聞いた話だ。――アンタは遠野に一度、殺されたんだよな。そして生き帰って、あいつに興味を持った」
「……」
それはもう懐かしい昔話なのだろう。個人をしのぶ儀式のように、沈黙と混ざり合い続けられる。
「遠野は責任を感じて、あんたを守ろうとするようになった。それで、お互い想い会うようにもなった。力を失って弱ってしまっていたあんたを、遠野はその異常に過ぎる眼を以って守り通した。……とんでもない化物達からな。俺は知識でしか知らないけれど、人が有する幻想では滅ぼせない連中を、殺していったし退けていった」
混沌。転生者。タタリ。血を吸う樹海。仮初めとはいえ不死を体現した吸血鬼の中で、不滅と呼称された怪物達だ。人間と死徒の戦いの中、死祖を封じ、滅ぼすに至った人間たちは、希少だがいた。だが『殺した』人間は、いない。また白翼の王や、血と契約を従える王族の手にも抗い抜いた。
「とんでもない話だよな。最後までアンタと一緒に居続けた。アンタも……遠野の事を想って、血を吸う衝動に耐えたんだろう? 本当はどんな事にだって縋りたかっただろうのに」
アルクェイドは応えない。瞑目したまま黙っている。
「――もし、筋を書いた存在がいるのなら、狡猾過ぎて反吐が出る」
士郎は苦渋に顔を染めて吐き捨てた。暫らく待ったが、やはりアルクェイドから声はない。
「……世界広しとはいえ、あんたを殺せるのは遠野志貴だけだった。あんたを襲って来た連中を殺せるのも、多分アイツだけだったんだろう。始点は、アンタを傷つけてしまったってところだけ見れば、不都合だけれど――結果的にはこの上なく、上手く行っているじゃないか」
誰にとって不都合であって、好都合であったのか。士郎は堪えながらも、叫ぶように問うた。
「アンタは遠野志貴を愛したんだろう? アイツもアルクェイド・ブリュンスタッドが好きだったんだろう。だから、だからこそ――もう、紅い月は昇らないんじゃあないのか。全てが、その為だけにあった運命っていう策謀じゃないのか!」
アルクェイドを一度殺害する事で壊し。吸血衝動に負けるまでに傷つけられないよう守り続け。愛情を教えて。
遠野志貴の裏で、得体の知れない意思が蠢いているようだ。
士郎は力なく、言った。
「聞けば、あいつは元来、抑止の影響を受けやすい体質だったらしい、な」
ならば。
「――抑止として動き過ぎた人間は、そのまま抑止に取り込まれる」
真実、救い難い結末が脳裏を過って、止まない。
士郎は項垂れて、右手で頭を抱えるようにした。――形は違うが、同じだ。自分もまた、得体の知れない意志に侵食されている。
衛宮士郎にも、愛した人がいた。彼女は聖杯を求め続けた英霊。共に聖杯戦争を駆け抜けて、そして気持ちを通わせたのだ。
士郎の想いは本物だったし、彼女も愛していると言い残して行ってくれた。彼女はアラヤとの契約を破棄し、守護者という修羅に身を落さずに逝けた。
なら、彼女の魂はどうなったのだろう。正統なシステムに乗り、英雄として座に昇ったのだろう――ガイアの英霊として。
同じく英霊。人としてか、星としてかの違いはあれど、破滅からの防衛機能として現れる抑止力。本質的には同じ存在だ。
ならば、あの聖杯戦争は、アラヤとガイアが抑止の剣を奪い合った場であるとも採れる。セイバーは、士郎との軌跡によってアラヤの守護者にはならずにすんだ。
アラヤの影響下にある、士郎と手を繋いでだ。
一つ疑えば、全ては歯車じみてくる。何時も朝起きて鏡を見て、疑念に囚われるのだ。この変質した姿は誰だ。どうして抑止はセイバーを手放したのか。アラヤはガイアより真実、英霊となる人間を奪えると考えたのか。アーチャーと名乗った英霊は、誰だ。セイバーを守護者の定めから解放させた人間が、とある守護者と同じ姿になっている。――抑止の守護者に問われるのは業績ではなく、魂そのもの。いわば数だ。
笑いが止まらない。数だけなら、帳尻が合うのだ。だったなら。何処までが、俺という真実なのか。
――あの日、俺は確かに運命と出会ってしまったのだ。
「もし、そうなら――どうなんだ。アンタ……アルクェイド・ブリュンスタッド」
何もかもが歯車としてぐるぐる回っている気がしてしょうがない。空だって一皮向けば巨大な歯車があるのかもしれない。それが太陽も月も回して、空気を対流させ風を起こし、地球を動かし地熱を生じさせ、人間の血肉すら動かして、魂や精神までも形作っているのではないのか。
遠野志貴の死を見る魔眼。歴史上類を見ない異能。まさしく、不老不死たる真祖の姫君、死祖殺しに符号が合い過ぎる。
衛宮士郎に唯一許された魔術。剣であれば宝具ですら投影が可能である。英霊の――守護者の武器である宝具を、人間が再現できる。
気分が悪い。耳の奥からカチカチと音がする。
士郎は両手を握り締めていた。頭が上げられない。何故なら気が狂いそうだから。
「アンタなら解るだろう? アラヤにも、ガイアにも囚われないアンタなら、解るんじゃあないのか」
教えてくれ。
「遠野志貴は、真実として――アンタを愛していたのか?」
4.
沈黙の中にさえ、ありもしない機械式時計の音がする。士郎はアルクェイドを覗えはしなかった。逆鱗に触れて殺されるかもしれない、と思ってさえいた。戦うとなれば、抵抗は可能だろうか。自嘲する。詠唱の間もなく初撃で葬られるのがオチだ。
ぽん、とアルクェイドは手を打ち合わせた。
「あ、思い出した。貴方でしょ、魔術師。いつも気難しい顔している堅物って」
「……は? な、なんだそれ」
「志貴が何度か話してたもの。眉間に皺が寄りすぎていて元に戻らないんじゃないのかって奴と会ったーって」
「――む。好き勝手言ってたんだな、アイツ」
そういえば、似たような事を指摘された覚えがある。「ほっとけよ」と返した記憶も。というか、黙り込んでたのはそれを思い出す為だったのかよ。
思わず士郎が見上げると、アルクェイドはにぱっと笑って見せた。
「道理で。ヘンなコト考えるのね、貴方って」
温かい雪のように柔和な笑顔だった。
「へ、変って……ちょっと待ってくれよ。俺にしたら切実な」
「ん? なんで? だって変わりなんてないじゃない」
驚くほどあっけらかんとしている。呆気に取られた士郎の前で、彼女はゆっくりと続けた。
「喩え抑止が糸を引いていたとしても、志貴がわたしと出会ったのには間違いないもの。志貴はわたしと一緒に居てくれたし、沢山「楽しい」を教えてくれたから。一杯愛してくれたもの。わたしが受け取った物は全部楽しかった。志貴がしてくれた事は、みんな」
ほら。何処にも変わりなんてない。
アルクェイドの瞳には、翳りなど何処にも見当たらない。信じるまでもない、当然の事を伝えている。
「志貴だってきっとそう。同じように言うもの。そんなコト、気にしてもしょうがないし――する価値なんてないって。魔術師、貴方は違うの?」
迷いなんて、無さ過ぎる。士郎は気の抜けた様子で「は――はは」と吹いてしまった。
「そう、か」
「うん、そうよ。あと志貴に抑止とか守護者って合わないわ。だってのんびり屋だったもの」
「――贋作とか本物とか、そんなもの意味がないのか」
そう在るだけで確かな意味がある。今そう想えるだけで真実なのか。
知らなかった訳じゃあない。忘れかけていただけだ。日々、理想を追い理想を裏切る日々に迷っていただけの話。
独り言のように呟くと、アルクェイドはほんの少し顔を渋めて、
「やっぱり堅物なのね、貴方。よく志貴と友達になれたわね」
「えー」と呆れかけていた。
気がつけば、歯車の音は止んでいた。
5.
「もう話はお終い? だったらもう行くけれど」
アルクェイドは後ろ手に持った、遠野志気の眼鏡だけが入っているトランクケースをぶらぶらさせている。
「ああ……変な話をして、すまなかったな」
「本当ね。人間って悩み過ぎると髪の毛が少なくなるんじゃなかった?」
「……ほっといてくれ。でもアンタ、何処に行くんだ?」
大きなバッグを持っているのだから、旅行だろうか。最愛の人間が無くなった後に? 今更気がついたのだが、彼女は悲嘆に暮れているという感じではなかった。予想は全く外れていたわけだ。
アルクェイドは「うーん」と軽く唸ってから、
「決めてないわ。でも、世界を見て回るつもりよ」
やはりあっけらかんとしていた。
「傷心旅行――か? あ、聞かれたくなかったのなら謝る」
「別に。ただ、つまんないから志貴の事をもっと知りに行くの」
「遠野、を?」
亡くなった人間の歩んだ跡を辿ろうとするのは、心の整理のつけ方としてあるものだ。けれど、アルクェイドには葬礼だとかにある、寂寞とした哀しみはまるでなかった。
遠くを見詰めながら、アルクェイドはぼんやりとした口調で、
「志貴と出会った頃ね、学校の教室でわたし、『どうしてこんな無駄な時間を過ごすのか?』って訪ねてみたの。そしたら志貴、『無駄だし退屈だけど、楽しい』って笑ってね」
右手を旨にそっと押し当てて、優しく微笑した。
「わたしには、まだよくわからない。世界はつまらないのに、どうして楽しいのか。だって志貴がいないと全てつまらないから。でも、志貴がそう教えてくれたの。ねえ、それってわたしがまだ志貴の事、全部は知らない――まだ知らない志貴がいるってことよね?」
「ああ――」
月明りが眩しくて溜まらない。士郎は思わず掌を額に翳した。
「だから世界を見てくるの。どうしてつまらないのに、楽しいのか。そうしたら、もっと志貴のことがわかるでしょ?」
「そうか……、アンタはそうやって」
いなくなった人を、ずっと想い続けていけるのか。
アルクェイドは嬉しそうに眦を落として、
「わたしね、さっき気づいたんだけど――鞄もって何処かいくのって初めてなんだー」
眩しさに、士郎はとうとう目を閉じて、そして思った。
――良い旅を。アンタが目にする世界に、きっと遠野はいる筈だから。
ep
奇妙な魔術師と別れて、アルクェイドは自らの城を徒歩で後にした。振り返れば、こんなにゆっくりと城の周りを歩いた経験はない。ただ過ぎ去る意味のない光景ばかりだった。
落ちついてみると、こんな風景だったのかと発見する事も多い。新鮮ではあったが、やはり面白くはない。空っぽに近い鞄を振り回しつつ、アルクェイドは自分の世界を後にする。
「……あ、そういえばさっきの魔術師の名前、聞き忘れちゃった」
ま、いっか。鞄はがらんがらんと音を発てている。眼鏡ケースが振りまわされて、鐘になっているのだ。
この中に、志貴の眼鏡以外に何が入るのか、まだ想像もつかない。
でも、志貴がいない、つまらない筈の世界に少しでも楽しいと想える物があったなら、きっとそれが入るのだろう。それはわたしがまだ知らない志貴の欠片でもあるのだ。
何気なく空の果てに目をやると、薄紫に薄らみつつあった。もうそろそろ夜明けだ。
やはり何時も見てきた光景で、新鮮さもなければ面白くもない。大体、夜明けを喜ぶ吸血鬼は何処にもいない。
なのに、アルクェイドは立ち止まった。次第に橙色を帯びてくる東の空をぼうっと見詰める。
「――そうだ。よっと」
思いついて、笑顔になって。アルクェイドは鞄を開けた。眼鏡ケースを取り出して、愛しそうに指先で一撫でする。志貴の眼鏡を摘み上げ、掛けてみる。
そうして、もう一度夜明けを眺めた。
やっぱり変わりない、変哲のない空の果て。けれど志貴が見た光景でもある。だって志貴の眼鏡だから。
そんな些細な事が嬉しくて、アルクェイドは彼に話しかけた。
「ねえ、志貴。世界って本当につまらなくって――楽しいね」
fin