■ こよみルート ■





000

 落ちる瞬間、少女の世界が点滅する。
 軽いめまいがした。踏み出した足が目測を誤った。体中に仕込んだ文房具のバランスが、その日たまたま悪かった。いくつか理由はあったけれど、ともかく少女は足を滑らせた。そして階段から落ちた。
 たなびく髪、リノリウム、おろしたての上履き、伸びて風を掴みあぐねる指。そういった実像を結ぶ点は落下の速度に追いつけず、線に引き伸ばされて軌跡になる。頭頂部から血が下がり、目を過ぎて、鼻を通り越したあたりで、彼女の思考はようやく形を得る。
 落ちる。
 軽すぎる体に活を入れれば、泳ぐ身を踏みとどまらせることも、きっとできた。彼女がそうしなかったのは、落下の感覚が思いのほか心地よかったからだ。
 無重力というほど自由ではない。浮遊と呼ぶほど長い時間もない。いつだって散漫な彼女の集中力は刹那を微分もしなかった。半秒に満たない瞬間を満喫するいとまもなく、羽のように彼女は落ちて、軽い音とともに腰から接地した。予想した通り痛みはほとんどなかった。虫が身の丈を超える高度から落ちても大過ないのと同じく、体重の失せた彼女もそれなりに落下に強い。
 血の気が頬に戻る感覚に無表情を若干歪ませる。目にかかる長い前髪を払おうとしてふと気付いた。
 突き出した右手。
 むなしく宙をかいたはずの、その指が、誰かに掴まれていた。
 曙光というにはやや遅い朝日が、私立直江津高校の踊り場に射しこんでいる。


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 五月八日のことだった。
 戦場ヶ原ひたぎが、まだ「およそ45キログラム」を取り戻す前の朝だ。

001

 時間は。
 機のように偶然を織る。そして繋いで束ねて必然をつくる。編みあがった必然の格子はかさを増して、やがて運命を象りはじめるが、だいたいはつまらない偶然に打ち壊される。万人は少しだけ高次な存在のひとり遊びに右往左往して、旦夕祝いと呪いを繰り返す。そうしている内にこころにはすっかり折り目がついてくたびれて、ひだに年月の塵埃を積もらせて、すえた匂いを発し、重たげに頭を垂れるようになる。人が、心が、想いに惑い煩わされて疲れていくその様は、風雨に煽られる旗のようだと彼女は思う。
 想いながら蛇口を捻る。水流の放出を止めたヘッドノズルは数滴名残を落として、すっかり静かになる。せまい浴室に湯気が濛々と立ち込める。吐息をこぼして低い天井を仰ぐ戦場ヶ原ひたぎは、浴室を出しなにバスタオルをつま先で拾い上げ、体を丁寧に拭き始める。長い髪は特に念入りに、けっして痛まないよう手入れした。ブラシを手に取り、ドライヤーが吹かす温風に沿ってくしけずった。
 一通り身体から水気を切ると、ひたぎはヘアバンドで前髪を留め、鏡の中の自分とにらみ合いを始めた。ブラシとペンシルとはさみとピューラーを手早く持ち替えつつ、彼女はその日も妥協なき戦いに挑む。
 そうして自宅の六畳間に下着姿でいると、ひたぎは阿良々木暦のことを想起せずにはいられない。五月八日の深夜を思い出さずにはいられない。すると平時は発音以外の用途で揺らがない鏡の中の唇が、一瞬だけ、弓形を描く。それは不随な微笑そのもので、そんな自分の顔を見ると、ひたぎは不意を打たれたような気分になる。
 窓の外でじわりとクマゼミが鳴き出しはじめて、夏の朝の到来を告げる。
 夏休みは終わった。日めくりカレンダーを一枚剥がした。八月二十一日の朝がきた。直江津高校の2学期は、今日から始まる。
 台所に立って昨日の夕飯の残り物を温め、小さな弁当箱に詰め込み、簡単な朝食を取り終えるころには、すでに家を発つ時間になっている。ひたぎは糊の効いた夏服の袖に腕を通す。スカートのホックを留める。ソックスを穿く。最後に姿見の前で一度身を翻す。
 重さを取り戻した少女は、軽やかな足取りで玄関へ向かう。戸を開き框から空を見上げれば、気力を減衰させるほど眩い太陽が輝いている。葉擦れに導かれるように木陰を選んでひたぎは歩く。歩みが弾む理由を彼女は正確に察知している。阿良々木暦と学校で会えるからだった。そんな自分を、滑稽だとも感じている。
「浮かれているわね」
 と、ひたぎは呟いた。別段、ひたぎはその日、暦と久方ぶりに顔を合わせるというわけではない。二日前にも市内の図書館で彼と卓を囲んだばかりだった。けれども、その事実はひたぎの陽気をとくに鎮めることもない。やれやれね、と彼女は他人事めいた嘆息を漏らす。
 戦場ヶ原ひたぎは、阿良々木暦に恋をしている。
 告白もしている。
 そして振られてもいる。
 でもまだ諦めきれていない。

 とはいえ、恋をするだけで何もかもが色づいて多幸感に満たされるような感受性はひたぎにはなかった。ただ約束もしていない通学路で信号待ちをしている阿良々木暦の背中を見かければ、その日は良い一日になりそうな予感を覚えはする。根拠はなくとも、出掛けに眼にするテレビの星座占いよりは支持できる予感だった。
 ひたぎは無言のまま、風に少し乱れた髪を整える。先んじて声をかけるべく喉の調子を整える。
 ――おはよう。阿良々木くん。
 そう口を開きかけたすんでで、暦が前触れもなく振り返った。ひたぎの接近を感知したからというわけでもなく、何の気なしの挙措だった。まったくの偶然に、ひたぎの視線と暦の視線が衝突する。出鼻を挫かれ眉根を寄せるひたぎをよそに、暦は素直に顔をほころばせた。
「偶然だな。おはよう、戦場ヶ原」
 ひたぎは口をつぐんだ。
 暦と目も合わせなかった。
 沈黙が降り、やがて信号が青へ変わった。
 ひたぎは学校へ進路を取った。
「ちょっと待て戦場ヶ原! それはない! それは普通に傷つくぞ!」
 そこでようやく足を止めて、ひたぎは暦を顧みた。
「あら。おはよう、阿良々木くん。こんなところで会うだなんて偶然ね」
「何事もなかったかのように朝の挨拶を交わそうとするんじゃない。何だよ今の小芝居は……」
 いつもの暦の素振りに少し溜飲を下げて、ひたぎは肩をすくめた。
「無視だなんて心外だわ。単に阿良々木君が……もとい、阿良々木君の人間が……というよりもやはり阿良々木君と阿良々木君の人間が小さすぎて、私の視界に入らなかっただけよ」
「僕の身体的特徴か人間性のどちらを貶すか迷った挙句結局両方貶しやがった!」
「そんな阿良々木君にも五厘の魂が備わっていることを、私は決して忘れないわ」
「あまつさえ僕の魂を虫の十分の一にまで減らしたな!」
「それよりも阿良々木君、感心しないわね。私はおはようといったのよ。返事はどうしたのかしら。まったく、ろくに挨拶も返せないなんて……阿良々木君の生まれてこのかたと今日死ぬまでのこれからが思いやられるわ」
「身に覚えのない罪を着せた上に僕の余生を今日で終わりにするんじゃねえ!」
 ししくする暦を前に嘆息を落とすと、ひたぎは髪をかきあげた。
 故なき動作ではない。暦への体臭アピールである。狙い違わず、少年の視線は一瞬ならず揺れ動いた。
「夏休みももう終わったというのに、あいも変わらずせせこましくもこまごましいわね、阿良々木くん。それ以上人間としてスケールを下げられたら、私としてもルーペを常備せざるを得ないかしら」
「お前の世界観で僕はどれだけミニチュアサイズなんだよ……」
「そうね。だから無視なんてしないわ。虫だけに」
「したり顔だけど別にうまくないぞ」
「私のルーペは、阿良々木君の焼却専用」
「僕にとっては微妙に洒落になってないからな、それ!」
「栂の木二中ファイヤーシスターズのお兄さんだけに、得意技は炎上なのでしょう」
「無理やり妹まで持ち出すんじゃない。どうあっても僕を燃やす気か」
 軽口を交わして、二人は通学路を行く。仏頂面の暦は頻繁に不平をこぼすが、その実、嫌がる気配は毫も見せない。それは悪意が己の主成分とうそぶくひたぎをして呆れさせるほどの善良さだった。
 阿良々木暦は、薄くて弱い。
 ただし、重くて硬い。
 風が吹けば飛びそうだったかつてのひたぎが身を寄せて、揺るぎもしない程度には頼りがいがある。そんな彼と過ごす時間をひたぎは常に物足りなく感じた。不満があるのではなく、満足すぎて満ちていない状態が不安になるのである。この朝もそれは同様で、ひたぎが暦と出会った信号から学校までの距離はそれなりにあったはずなのに、気がつけば校門最寄りの交差点に差し掛かっている。夢から醒めたような心地になったひたぎは、そんなおのれの心境は苦笑いで見送るほかない。相対性理論の正しさを思い知らされたようだった。
「お」と暦が呟いた。ひたぎの人生を早送りにする要因である少年が、目線を向かいの歩道へ向けている。
 つられてひたぎも眼差しを転じれば、見知ったようで見慣れぬ少女がそこにいた。身体の前で鞄を提げてたたずむのは、ひたぎと暦の共通の知人、羽川翼である。
「あら」とひたぎも呟いた。抑揚のない口調と表情に反して、内心は少なからず驚いていた。
 信号待ちする羽川翼の立ち居に、えもいわれぬ趣を感じたからだった。原因の大方は、羽川の髪型が夏休み前とずいぶん違う点に由来しているのかもしれない。頑ななまでに編み上げられていた黒髪は解けて垂らされ、背に真っ直ぐと降りている。ただ印象のギャップは髪型だけで埋まるものではなかった。
 ふいに、そして猛烈に、ひたぎは正体がわからない焦燥に駆られた。
 かるく手を挙げた暦に応じて小さく手を振る羽川の仕草が、ひたぎの中に根を張る何かを刺激してやまない。
「なんだか、羽川さんが、すごく綺麗に見えるわ」
「そうか?」と暦は首を捻った。「まあ、あいつが美人じゃないとは言わないけど……」
「そういう意味じゃないわよ。鈍いわね、阿良々木君。あれはむしろ……まあ、いいわ」
 続けて紡ごうとした言葉を、ひたぎは苦労もせずに飲み込んだ。寝た子を起こす趣味は、ひたぎにはない。注意深く違和感のもとを探るべく、青信号の点灯を待って歩き出した羽川の姿を見やった。羽川との距離が縮まるにつれて、ひたぎが直覚した違和感はほとんど核心へと変わる。
 羽川翼の何かが違う。
 戦場ヶ原ひたぎが知っている完璧な優等生と、この朝遭遇した少女が、どうしても等号で結びつかない。顔立ちもスタイルも恐らく声も頭脳の明晰ささえ、以前と何一つ変わっているとは思えない。本質そのものに毀損はない。ひたぎは自身の聡さにある程度自負がある。見立ては間違っていないはずだった。
 何かはわからない。けれど確実に何かが違っている。そして、それは酷くひたぎを焦らせる。
 瞬きを忘れ、息を詰めているひたぎをよそにして、羽川は落ち着いた声音で「おはよう」といった。ひたぎも一見普段と変わりなく挨拶を返した。車道側に身を寄せて、暦が歩みを再開する。
 ひたぎは暦に並んだ羽川翼の背を見た。違和感のもとを探し当てようと眼を凝らした。夏の朝の陽射しが少しだけ烈しさを増して、ひたぎの前を行く男女を照らし出す。うっすら汗ばむ首筋を温い風が撫でていき、ひたぎはそこで初めて自分の肌が粟立っていることに気付いた。
 そのとき、何かに気付いた素振りの羽川がこういった。
「あ。ねえ阿良々木君、少し動かないで」
 暦の答えを待たずに、少女の手が伸ばされた。その手はそのまま伸びて、何の抵抗もなく暦の前髪に触れた。背伸びして地面から浮いたかかとが、スカートのひだに隠れる足の曲線が、暦との距離をたやすく詰めるその無造作が、むやみに綺麗に感じられて、ひたぎは思わず身を強張らせた。目を奪われる美しさがそこにあった。羽川の表情はとても穏やかで、満たされていて、人間味に溢れていた。
 ああ、とひたぎは思った。
「どうしたの、戦場ヶ原さん」一言も発さないひたぎを顧みた羽川がいった。
 ひたぎは微笑んでかぶりを振った。
「なんでもないわ。それより羽川さん、なにかいいことでもあったのかしら?」
「なんだそれ。忍野の真似か?」暦が半畳をいれた。
「阿良々木君はいいから。黙っていつもみたいに登校中の女子小学生に目星をつけていて頂戴。通報はあとでしておくから」
「あからさまに人を犯罪者予備軍扱いするんじゃねえ!」
 荒ぶる暦をよそにして、羽川は何かを探す目つきになった。
「いいことねえ。よくわからないかな。よくあるような気もするし、そんなになかったような気もするし」
「羽川もフォローしてくれ……彼氏が今まさに冤罪被害者になろうとしてるんだぞ!」

 ああ。

「阿良々木君は……まず日ごろの行いを改めたほうがいいと思う……」
「信頼ゼロかよ!」
 『人間味』とひたぎは思った。
 羽川翼が持ち得なかったもの。
 いまの羽川翼に足りているもの。
 それで、何もかも悟ることができた。
 かみ合っていなかった主観と世界の空白を埋めるピースを見つけたと感じた。腹蔵を満たしていた焦りはうそのように消失した。かわりに立ち現れたのは、失意と、敗北感と、寂寥と、一抹の幸福感だった。ひたぎは、大きく深く、静かに優しく息を吐き出した。時間切れかと思った。少し間を置いて、混乱の色がつよいこの感情は悲しみだとか、もしかすれば涙にでも変わるのだろう。今夜は神原でも誘うべきかしらと、ひとりごちた。
 憾みも皮肉もあまり心中に湧かなかったことは、素直に意外だった。自分で思うよりも、戦場ヶ原ひたぎは阿良々木暦に執着していなかったのかもしれない。
「…………」
「…………」
 いつの間にやら、暦と羽川の会話が止んでいた。ふたりは凝然と、沈思黙考するひたぎを見ている。ひたぎはいぶかしげにかれらを見返した。
「どうしたの?」
「おまえがどうした!?」
 暦がひたぎの顔を指差した。
「せ、戦場ヶ原さん、これ使って」
 羽川が折り目正しく畳まれたハンカチを取り出した。
 ひたぎは無言で、自らの頬に手をやった。濡れた感触が指を伝った。不快げに眉をひそめた。
「これが……涙。泣いているのは、私」
 綾波の物まねをしてみた。
「結構余裕だなお前!」
「むろん、私はいずれパチンコの顔となり巨万の富を稼ぐ女よ」
「しかもやけに商業的な野心満々だ!」
「えっと……本当にどうしたの、戦場ヶ原さん」羽川が心配を隠せずに問うた。「どこか痛いの? それとも何か、悲しいの?」
 返答に詰まった。が、一瞬だけだ。ひたぎは肩をすくめる。
「こんな無様を晒した以上、隠してもしようがないから明かすけど……どうやら失恋のショックのようよ。まぁ、こうして影で泣いている私もいるのだということを自覚しつつ――幸せになってね、お二人さん」
 淡白な台詞に対する反応は意外だった。暦と羽川のふたりが、同時に目を瞬かせ、顔を見合わせた。
「なによ、その反応は。そんなに不思議かしら。二人が付き合い始めたからって、私が恨み言でもいうと思った? まあ正直皆無というわけでもないけれど――だからといって、友達の幸福を祝えもしない女だなんて見下げてほしくはないわ」
「い、いや、戦場ヶ原。そうじゃなくてさ。そういうことじゃないんだ。僕と羽川が気にしているのは、――なんで、『今』それを言うのかってことだよ」
 暦が混乱も露にいった。
 ひたぎは首を傾げた。
「なんでも何も、今を置いていつ言えというのよ。ああ……もしかして、自分たちから言い出したかったということ? それならそれは申し訳なかったけれど、だったらもう少し上手く隠して欲しかったわ」
「戦場ヶ原」
 真剣な顔で、暦がひたぎの言葉を断ち切った。足早に間合いを詰めた暦の両手が、ひたぎの肩に置かれる。真摯な瞳を至近から覗き込んで、ひたぎはことさら意識して熱っぽく呟いた。
「なにかしら。彼女が見ているわよ、阿良々木君――」
「今日が何日か、わかるか」
「……はあ?」
 ぶしつけな質問だった。正気を疑っているといわれたようなものだ。気分を害して、ひたぎは「八月二十一日」と答えた。
「……僕と、羽川が付き合いだしたのは、いつだ?」
「正確な日取りなんて私が知るわけないでしょう。……なんなの? いかに温厚な私でも、そろそろ怒りゲージがマックスになりそうよ。超必殺技出すわよ」
「お前の超必殺技とやらに興味がなくもないが……」
 語調に苦渋を滲ませて、暦はいった。
「僕と羽川が付き合い始めたのは、五月からだ」
「…………それは」
 さりげなさを装うことに、気力を引き出す必要があった。五月といえば、思い出深い時期である。ひたぎがはじめて暦に出会い、救われた時期だった。母の日には告白もした。都合4ヶ月間、ひたぎは暦と羽川の関係に気付かなかったということになる。
 考えにくい話だった。
 有り得ないと思った。
 羽川翼が本当の意味で世間を欺瞞しようと思ったとき、ひたぎにそれを暴くことはできない。ごく一部の例外を除き、ひたぎ以外の誰でもそれは同じだ。だが、阿良々木暦が何を隠そうと努力したところで、ひたぎにはそれを見抜ける自信がある。確信がある。誰よりも、何よりも、この数ヶ月間で阿良々木暦を見続けていたのは戦場ヶ原ひたぎだ。ひたぎにとって、それは疑いの余地が無い事実だった。暦とともに怪異に遭遇したことも、休日に連れ歩いたこともあった。非日常と日常の小さくない領域を共有していたはずだった。
 だからこそ、有り得ない。
「それは少し――いいえ。……とても、おかしな話ね」
 その通りだと暦は頷いた。

「それに、僕らが付き合っているってことは――戦場ヶ原、お前だって、知っているはずなんだ」



【以下 「華物鏡」内の本編に続く――】

■本文 五十六
■挿絵 ashcape



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